NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」では、小泉八雲をモデルとするヘブン（トミー・バストウ）に、知事の娘リヨ（北香那）が一目惚れするシーンが描かれ、注目を集めています。この物語は、実は史実に基づいたものであり、多くの視聴者がその背景にある真実に興味を抱いています。当時の島根県知事の娘はどのような人物だったのでしょうか。そして、この「一目惚れ」はどのように語り継がれてきたのでしょうか。本稿では、文献などを通してその歴史的背景を深く掘り下げていきます。
「ばけばけ」で描かれる知事令嬢の一目惚れは史実だった
ドラマ「ばけばけ」では、主人公トキ（髙石あかり）とヘブンが徐々に心を通わせる一方で、江藤安宗知事（佐野史郎）の娘リヨがヘブンに強く惹かれ、トキに協力を求めるという展開が描かれています。この複雑な三角関係の描写は、単なるフィクションではなく、史実を基にした脚本であることが知られています。実際に、松江に赴任したラフカディオ・ハーン（小泉八雲）は、当時の島根県知事・籠手田安定の令嬢・淑子から一目惚れされていたと記録されています。この史実がどのように現代のドラマに息づいているのか、その詳細を探ることは興味深いと言えるでしょう。
小泉八雲が魅せられた松江の地と「古武士」籠手田安定
淑子（史料によっては「とし子」とも）は、小泉八雲を松江に招いた島根県知事、籠手田安定（こてだやすさだ）の娘です。安定は平戸藩出身の剣術家で、山岡鉄舟から一刀流正統の証である朱引太刀を授けられた一流の腕前を持つ人物でした。明治維新後は島根県知事をはじめとする要職を歴任し、男爵の位を授けられるほどの功績を残しています。日本の伝統文化に深い憧憬を抱いていたハーンにとって、安定のような「古武士」の風格を持つ人物は、非常に興味深い存在だったことでしょう。このハーンの関心を知ってか、1890年9月に松江に来て間もない頃、安定は自身の邸宅にハーンを招き、盛大な歓待を催しています。
島根県知事を歴任した籠手田安定の肖像
淑子との密接な交流：琴の音色とうぐいすの贈り物
ハーンの知人であり、ドラマ「ばけばけ」の錦織（吉沢亮）のモデルとなった西田千太郎の日記には、安定がハーンのために雛人形を飾り、書画骨董を並べた茶席を設けたことが記されています。さらに、剣術の披露や娘による琴の演奏も行われたとあり、ハーンは大いに満足したと伝えられています。この時に琴を演奏したのが、安定の娘の一人である淑子でした。池野誠氏の著書『小泉八雲と松江 異色の文人に関する一論考』（島根出版文化協会 1970年）には、その後の二人の関係についてこう記されています。「ハーンはその後、県知事令嬢と交際するようになった。県知事籠手田安定には令嬢が二人あったが、よし子は松江婦人会会長をつとめたりするほどの才媛ぶりを発揮し、ハーンのこともなにかと世話をしたので、彼も彼女に対しては特別の好意をいだいたのだった。」実際に、翌年にかけてハーンと淑子の関係はかなり密接なものとなっていきます。
なぜ二人の関係はそれ以上発展しなかったのか？
池野氏の著書によれば、1891年の初頭、寒さのために体調を崩し寝込んでいたハーンに対し、淑子は見舞い状と共に珍しい形の籠に入れられたうぐいすを届けたといいます。ハーンは、その美しい鳴き声に心を慰められ、淑子の好意に深く感動したと記されています。この時期の西田宛の手紙にも、ハーンが淑子へ礼状を送る予定である旨が書かれており、二人の間の温かい交流がうかがえます。しかし、にもかかわらず、二人の関係がそれ以上に発展することはありませんでした。安定が新潟県知事に転任した後に送られた手紙の中で、ハーンが淑子に触れている部分はあるものの、その程度の言及にとどまっています。知事令嬢の一目惚れと、文化人ハーンとの間の密やかな交流は、松江での滞在に彩りを添えるエピソードとして、今なお多くの人々の興味を引きつけています。
