豊臣秀吉の「人たらし」神話の真実:草履温め逸話の裏に隠された側面

豊臣秀吉には、織田信長の草履を温めた逸話を筆頭に、「人たらし」としての巧みな処世術を示すエピソードが多く語り継がれてきました。しかし、国際日本文化研究センター准教授の呉座勇一氏によると、実際にそのような気質があったことを示す証拠は少なく、むしろ戦国時代でも珍しいほどの残虐性を持つ武将だったと指摘されています。本稿では、秀吉の「人たらし」イメージがどのように形成され、その背景にはどのような歴史的経緯があったのかを深掘りします。

『絵本太閤記』に描かれた豊臣秀吉のイラスト『絵本太閤記』に描かれた豊臣秀吉のイラスト

豊臣秀吉が江戸庶民の憧れとなった理由

豊臣秀吉は、貧しい出自から織田信長の家臣として異例の出世を遂げ、信長の死後は主家を乗り越えて天下人となりました。この類を見ない大成功は、秀吉が人心を掌握する術に長けていたからだと広く信じられてきました。彼の「人たらし」というイメージが定着した背景には、江戸時代に隆盛を極めた物語や芝居が深く関わっています。特に、『甫庵太閤記』や『絵本太閤記』といった作品が、秀吉の人物像を形作る上で決定的な役割を果たしました。

「人たらし」イメージ形成の背景にある江戸時代の物語

江戸時代初期の儒医、小瀬甫庵によって著された『甫庵太閤記』は、秀吉の生涯を物語風に描いた伝記です。この作品は、秀吉の知略、人間性、そして立身出世の過程を強調する内容であり、彼の若き日の苦労、戦国の世を生き抜く知恵と機転、天下統一への道のりが脚色を交えて語られました。『甫庵太閤記』は江戸時代の出版文化の発展に支えられ、秀吉の事績を庶民に広く知らしめるきっかけとなりました。

「信長の草履温め」逸話の決定版:『絵本太閤記』の役割

豊臣秀吉の「人たらし」神話を決定づけたのは、秀吉の死から約200年後に刊行された『絵本太閤記』です。この作品は、武内確斎が文章を、岡田玉山が挿絵を担当し、寛政9年(1797年)の初編刊行当初から絶大な人気を博しました。その後も続編が次々と刊行され、全7編84冊にまで膨れ上がります。挿絵付きで分かりやすかったこともあり、『絵本太閤記』は秀吉のイメージを爆発的に普及させることに成功しました。

『絵本太閤記』が広めた人間味あふれる秀吉像

『絵本太閤記』は、秀吉の立身出世の過程を伝える中で、彼の人間味あふれるエピソードを数多く紹介しました。中でも、信長の草履を温めた逸話は、この作品によって広く知られるようになったものです。寒い夜に信長の草履を懐で温めてから差し出し、その心遣いが信長に認められたというこの話は、気配り上手で人の心をつかむことに長けていたという秀吉の「人たらし」を象徴するエピソードとして語り継がれています。

結論

豊臣秀吉の「人たらし」という広く浸透したイメージは、江戸時代に生まれた『甫庵太閤記』や特に『絵本太閤記』といった文学作品によって形成され、普及した側面が強いと言えます。信長の草履を温める逸話は、その象徴として今なお語り継がれていますが、歴史的な裏付けとしては多くの脚色が含まれている可能性が指摘されています。呉座勇一氏の研究が示唆するように、通説とは異なる秀吉の多面的な人物像を理解することは、戦国時代の歴史をより深く洞察する上で不可欠です。