―[貧困東大生・布施川天馬]―
2025年12月18日の深夜、大変なニュースが飛び込んできました。
なんと、官邸筋から「日本の核兵器保有が必要」とする発言が漏れた、というのです。
明らかにオフレコの発言であり、しかもよりによってこのタイミングになって、どうしてこんな発言が漏れ出してきたのかは不明ですが、何にせよ、仮にこれが本当だとするならば、日本は戦後最大の転換点を迎える可能性があります。
なぜなら、恐らく多くの方がご存じの通り、日本は「非核三原則」を国是としてきたからです。
とはいえ、「持たず、作らず、持ち込ませず」のうち「持ち込ませず」について議論が続いているなど、微妙なグレーが感じられてきたのも確か。果たして、これが覆る日は来るのでしょうか。
さて、今回はこの大スクープをさらに理解するために、日本の核兵器に対する向き合い方を、高校範囲までの日本史・世界史知識を基に簡単にまとめてきました。
やはりなるべく網羅的かつ偏らないようには致しますが、私も専門家ではないために、どうしても一部抜け漏れが出る可能性がございます。その際はご容赦ください。
「非核三原則」とは?
そもそも「非核三原則」とは、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする日本政府の基本政策のこと。
1967年、佐藤栄作首相(当時)が国会で表明し、1971年に沖縄返還との関連で非核三原則の順守を盛り込んだ決議が国会で採択されました。
そして、歴代政権もまた、この立場を「堅持する」として、継承し続けてきたのです。
1960年代は世界中が冷戦下にあり、東西、ひいては米ソの対立によって「核戦争が明日にも起きる」ともささやかれた時代でした。
特に1962年のキューバ危機では米ソが核兵器使用の一歩手前までいった出来事として知られており、これは間違いなく歴史上もっとも「第三次世界大戦」に近づいた瞬間と言えるでしょう。
米ソは核軍拡に勤しみ、他の大国もこれらに倣って核実験を進め、核武装を進めようとする中で、明らかに「抑止力としての核」の力は無視できないものになっていきました。
ですが、日本は戦後早い段階から世論は「核兵器禁止」を求め続けていたのです。
広島・長崎に原爆を受けた唯一の被爆国である日本は、1954年にはビキニ環礁で行われた米国の水爆実験により第五福竜丸が被ばく。国内での反核兵器ムードは、ゆるぎないものになっていました。
1955年に議員立法によって制定された「原子力基本法」第二条では、原子力の研究、開発、利用を平和目的に限っていますが、これについて中曽根康弘衆議院議員は「(日本の)国防目的のためにそれを使うべきではない」「原子燃料を使って人間を殺傷するための武器は別である」と答弁しており、核兵器の製造及び使用が禁止されることが確認されています。
また、「持ち込ませず」の部分についても、1955年の国会において「核兵器は国際法で禁止されていないから、(旧)安保条約で米国に基地を提供したことにより、米国は核兵器を自由に持ち込めるのではないか」と質されたことを受け、重光葵外務大臣(当時)は駐日米大使との会談で「米軍は日本において原爆を保有していない」「原爆を持ち込む場合は日本の承諾が必要」と確認を取りました。






