小学校卒業まで仲間と大好きな野球を続けたいと願った少年は、平成7年1月の阪神大震災で逝った。「あの日」から間もなく25年。少年がつけた背番号「12」は永久欠番となってチームに残り、いまを生きる子供たちに命の重みを伝え続けている。(有年由貴子)
「本当に野球が大好きで、このチームでずっと続けたくて。でも、震災でそれがかなわなかった子がいたんだよ」
震災から25年が近づいた12日朝、神戸市東灘区の市立本山第三小学校のグラウンド脇にある慰霊碑の前で、少年野球チーム「本三(もとさん)少年野球部」顧問の大内博さん(70)=同区=が今年も子供たちに語り掛けた。
震災当時、チームの監督を務めていた大内さん。25年間、毎年1月17日が近づくと、練習前にチーム全員とともに黙祷(もくとう)をささげてきた。慰霊碑には、震災当時の教え子だった少年の名前が刻まれている。
低学年から入部した少年は失敗を恐れない精神力の強さがピッチャーに向いていた。「いろんなポジションをやってみたい」と意欲を見せ、持ち前のちゃめっ気と明るさで、仲間を引っ張っていく姿が頼もしかった。
震災前年の12月末、小学5年生だった少年は転居に伴い同区内での転校を控えていたが、「最後の1年だから、卒業までここで野球をやらせてください」と、大内さんに頼み込んだ。翌週には5年生を中心とした新チームが発足。大内さんは「彼をキャプテン候補にしたい」と思っていた。
だが、少年は震災で倒壊した自宅で亡くなり、チームでただ一人の犠牲者となった。「助けてやれなかった。自分は何をやっていたのか」。学校の先生のような思いで子供たちを見守ってきた大内さんは自責の念にかられ、教え子の早すぎる死に、胸が締め付けられた。