「自分がやるしかなかった」 関西電力・小林氏死去、「関電の2・26事件」を主導





自身の戦争体験を語る関西電力の社長、会長を歴任した小林庄一郎さん=2015年11月6日、大阪市北区の関西電力本店(南雲都撮影) 
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 「電力は日本再建に役立つと予感した」

 昭和22年、小林庄一郎氏は戦時復興で花形産業といわれていた電力事業の可能性に魅力を感じ、関西配電への入社を決めた。26年に関西電力が発足する。

 しかし、当時の関電には大きな課題があった。関西における電力不足は慢性的な状態となっていたからだ。そんな危機的状況の打破を目指し関電が社運をかけて31年に着手したのが、後にその困難さから“世紀の大工事”として語り継がれる「黒四ダム建設工事」だった。

 着工から3年が経過した34年、社長秘書だった小林氏は工事現場に入り、すさまじさに驚嘆した。その後も「あれを忘れることはできない」と振り返った。

 小林氏の特筆すべきエピソードは「関電の2・26事件」。関係者によると、62年2月26日、取締役会に「退任予定取締役」とした手書きのメモが提出されたという。そのなかには「関電の中興の祖」とされた代表取締役名誉会長の故芦原義重氏の名前も。当時会長だった小林氏は緊急動議を発動し、芦原氏らの取締役解任を可決した。「前日に取締役らで段取りを話し合ったと聞いた」(関係者)との話も伝わる。

 芦原氏は社長、会長として10年以上君臨し、退任後も名誉会長として絶大な権力を振るっていた。小林氏は平成27年の産経新聞のインタビューで、「会社のためにマイナスでなかったと思っている。裏も表も知っている自分がやるしかなかった」などと苦しい心情を吐露している。

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