《1980年3月6日、台北市内の景美留置所で、言論弾圧「美麗島(びれいとう)事件」の主犯、黄信介(こう・しんかい)氏と面会した。黄氏は憔悴(しょうすい)しきっていた。拷問を受けたことを確認し、担当弁護士として抗議したが、検察側は書面で「拷問した事実はない」と回答してきた。当時の台湾の司法はとにかく不透明で、人権という概念はなかった》
当時、国内外のメディアは美麗島事件の裁判を連日大きく取り上げ、社会の関心が高かった。政府は「国家転覆を企てた犯罪者を裁く裁判」という宣伝キャンペーンを展開したが、信じる人は少なかった。反対に「政権に迫害された知識人」として被告らに同情が集まっていた。私はほかの仕事を全て断り、黄氏の裁判に専念した。
法廷で無罪を主張するために1時間以上の大演説を行い、メディアに大きく取り上げられた。ほかの弁護士も注目され、図らずも脇役である私たちは被告らと同様、有名人になってしまった。当初、黄氏は死刑の可能性が高いとされていたが、関係者の努力と世論の圧力で、懲役14年という判決だった。
《美麗島事件は台湾の近代史の中で、最も影響力のある事件の一つとされている。独裁政権に立ち向かう関係者の戦いは民主化への大きな一歩と位置づけられた。その後、美麗島事件の被告、家族、弁護士らを中心に立ち上げた政党が今の与党、民主進歩党だ》
無罪を勝ち取れなかったことは悔しかったが、想定内の結果でもあった。被告たちは投獄されたが、外に残った私たちの戦いは終わっていなかった。1980年の暮れ、立法委員(国会議員に相当)の補欠選挙と、当時の台湾の最高意思決定機関「国民大会」の代表選挙があり、事件の被告の家族が次々と立候補した。これまでの選挙は国民党が内定した候補者が当選するのが一般的だったが、その年は国民党の推薦を受けていない被告の家族に票が集まり、次々と当選した。私たち弁護士は水面下で寄付金を集めるなど、一生懸命応援した。