恐怖の負の遺産・三峡ダムは最終的に爆破で取り壊さざる得ないのか?

恐怖の負の遺産・三峡ダムは最終的に爆破で取り壊さざる得ないのか?

設計責任者が語る「罪」
2012年7月13日に84歳で逝去した潘家錚(はんかしょう)は、1985年に三峡ダム建設計画の「論証指導グループ」副グループ長と技術総責任者に任命された人物であり、三峡ダムの総設計師と呼ばれている。

藩家錚は「中国科学院(中国科学アカデミー)」と「中国工程院(中国科学技術アカデミー)」の「院士(アカデミー会員)」であるが、三峡ダム建設計画の検討が開始された1950年代には、当該ダムの建設計画に強く反対していたというから世の中は皮肉なものである。

潘家錚はその著作『三峡夢(三峡の夢)』の中で次のように述べている。

「自分はかつて悪い夢を見た。その夢の中で、彼は「国際生態環境法廷」に被告として立たされ、三峡ダム建設の設計を行った罪により、「人籍(人間の資格)」をはく奪されて、「魔道(悪魔の住む世界)」へ堕とされて冥土の地獄へ送られ、「凌遅(人体をばらばらにする刑罰)」に処せられるという苦しみを受けていた。」

その理由は三峡ダムを建設したことによる20の罪状であるとして、潘家錚は、(1)大量の土地や樹木を水没させた、(2)人権を侵して住民を移転させた、(3)地震を誘発させた、(4)文化財や古跡を水没させた、(5)水質を悪化させた、(6)長江の通航を妨害した、(7)ダム崩壊の危険を発生させたなどの理由を列挙したが、「科学は万能であり、人間は必ず自然に勝つものであり、これに加えて建設しないことによる2罪が20もあるので、ダムは建設せざるを得なかった」と述べて、三峡ダムの建設を自己弁護すると共に正当化したのだった。

必ず襲う大きな禍

三峡ダムの建設に強く反対したのは、著名な水利工事の専門家で清華大学水利学部教授の黄万里(こうまんり)であった。

三峡ダムは1994年12月14日の正式着工から15年後の2009年の年末に建設工事を全て完了したが、その8年前の2001年8月27日に90歳で逝去した黄万里は臨死の病床で人事不省にもかかわらず、「三峡! 三峡、三峡ダムは絶対に建設してはならない」とうわごとを言っていたという。

長江の三峡ダム建設計画は1992年4月3日に中国共産党第7期全国人民代表大会第5回会議で決議されたが、黄万里はそれから1年以内に3回も中国共産党中央委員会総書記の江沢民宛てに手紙を書いて、三峡ダム建設反対を訴えた。その手紙の中で彼は次のように述べた。

「三峡ダムの高い堤防は根本的に建設すべきでありません。それは建設が早いか遅いかの問題ではなく、建設工事を行うこと事体が国家と国民に災いをもたらすことになります。もしそれを建設するならば、最終的には爆破で取り除かれることになるでしょう。どうか速やかに決議を停止してください。さもないと、完成したダムが貯水を終えた後に必ずや大きな禍をもたらすことになるでしょう。」

12のうち11の予想が的中

黄万里は、将来的に三峡ダムがもたらす12種類の災難が引き起こす、次のような結末を予測した。

(1)長江下流の堤防が崩壊する、(2)長江の河川運輸が阻害される、(3)水没地域に居住する住民の移転問題、(4)汚泥の堆積問題、(5)水質の悪化、(6)発電量の不足、(7)気候の異常変動、(8)地震の頻発、(9)住血吸虫症の蔓延、(10)生態の悪化、(11)上流における水害の深刻化、(12)最終的には三峡ダムは爆破で取り壊される。

ちなみに、住血吸虫症は、住血吸虫が人体に寄生することによって引き起こされる急性・慢性の病気である。住血吸虫は流れが緩やかな河川に生息する「釘螺(カタヤマガイ)」を媒介として有尾幼虫になるまで育ち、その後は有尾幼虫の形で水中に浮遊し、人間や動物が水に入ったチャンスをとらえてその体内に侵入する。住血吸虫症は従来から主として四川省、重慶市、雲南省などの長江流域で流行しており、その患者数は全国で80万人と言われている。黄万里の予測は、三峡ダムの完成後は長江の流れが緩やかなものに変わって「釘螺」が増殖すれば、住血吸虫が繁殖することにより住血吸虫症の患者は急増するというものであった。

この予測は、最後の12番目を除く11までの結末が、すでに明確な形で的中している。残るのは「三峡ダムの爆破による解体」という最後の予測が的中するかどうである。

なお、昔から風光明媚で知られた三峡地区の地質は石灰岩が主体で、水に侵食され易く、ダムを建設すれば、沿岸で地滑り、山崩れ、土砂崩れが発生することは必然であったし、それによって土砂や汚泥がダム湖に堆積することは十分予測できることだった。

孫子の代まで謝罪しなければならない

さて、黄万里と共に三峡ダム建設反対を唱えた人物に李鋭(りえい)がいた。

李鋭は2019年2月16日に101歳で天寿を全うしたが、1905年には日本へ留学して、早稲田大学政経学部を卒業している。帰国後に改めて国立武漢大学工学部機械科を卒業した李鋭は、1937年に中国共産党へ入党し、1949年に中華人民共和国が成立すると水と電気の専門家として活躍し、1958年には中国政府「水利電力部」副部長となり、一時的に毛沢東の秘書を務めたこともあった。

その李鋭は、1980年代初頭に『三峡ダム建設計画を論じる』と題する本を書き上げるのと並行して、何度も中国共産党の上層部へ三峡ダム建設反対を上奏した。その主旨は「将来、三峡ダムが完成した暁には、ダム湖の末端で発生する洪水の水位が激しく上昇することになるから、その位置に所在する重慶市は必然的にその後の準備を行わねばならない」というものだった。

恐怖の負の遺産・三峡ダムは最終的に爆破で取り壊さざる得ないのか?

そして、彼は黄万里の言葉を引用する形で「今後は恐らく(三峡ダム建設で水に沈む奉節県に所在する遺跡で、ダム完成後は辛うじて水面に浮かぶことになる)白帝城の中に男女4人の跪(ひざまず)く鉄像が置かれ、彼らに三峡ダムと長江に対し孫子の代まで謝罪させることになるだろう」と述べたという。

その男女4人とは、黄万里や李鋭などを主体とする三峡ダム建設に反対する人々を弾圧して、三峡ダムの建設を推進させた元凶である元国務院総理の李鵬、元水利電力部長の銭正英(女性)、元三峡工程建設委員会副主任の陸佑楣(りくゆうび)、元清華大学水利学部教授の張光闘(ちょうこうとう)であった。

異例、反対票33%
話は前後するが、中国政府「国務院」は、1992年に三峡ダム建設計画の議案を、中国の国会に相当する「全国人民代表大会」に提出した。当該議案は3月20日から開催された第7期全国人民代表大会第5回会議で審議され、最終日の4月3日に票決が行われた。

票決の結果は、賛成:1767票、反対:177票、棄権:664票、未投票:25票(投票総数:2633票)であった。これはラバースタンプと言われて賛成票が100%を占める通常の票決結果とは大きく異なり、賛成表の比率はわずか67%であった。

反対は177票に過ぎなかったが、棄権および未投票は正面切って反対票を投じるのを逡巡したものと考えられ、実質的には反対票の比率が33%を占めたと言えるのであった。

こうして三峡ダム建設計画の議案が賛成多数で採択されたことにより、古くは1940年代の中華民国国民政府にまで遡る三峡ダム建設構想は、実現に向けて最初の一歩を踏み出すことになった。

世紀の大工事だったが

1993年に国務院三峡ダム建設委員会が技術の最高決定機関として設立されると、国務院総理の李鵬が同委員会の最高責任者である「主任」となった。また、同委員会の管理下に「長江三峡ダム建設開発総公司」が設立されて、建設実務を担うことになった。

議案の採択から2年半後の1994年12月14日に三峡ダム建設事業は現地で起工式が挙行され、正式に工事の開始が宣言された。

起工式には国務院総理の李鵬が出席して『功在当代利千秋(三峡ダム建設の功績は現代にあるが、その利益は千年先まで続く)』と題する演説を行い、「40年以上の論証を経て三峡ダム建設事業は遂に起工式を迎えたが、三峡ダム計画は洪水防止、発電、河川運輸などの総合的効果を備えた巨大事業である」と述べたのだった。

三峡ダムの建設現場で最初のコンクリートが型に流しこまれたのは起工式から3年後の1997年12月11日だった。そして、それから3080日後の2006年5月20日にコンクリートの流し込み作業が全て終了し、三峡ダム建設事業のダム部分の工事は完成したのだった。

この建設事業に携わった労働者たちによる3080日間にわたる日夜を分かたぬ奮闘で、三峡ダムに注ぎ込まれたセメント・砂・石材の総量は1600万立方メートル以上に及んだ。もしこれを1立方メートルの体積で並べれば、その距離は地球の赤道を3周した計算になるという。

国家指導部に無視された完成式典
この通り、三峡ダムのダム本体工事は2006年5月20日に完成したが、費用の節約を名目にして、なぜか完成式典は大幅に簡素化された。

旗や標語が飾られた会場で開催された完成式典に参加したのは、関連する建設部門の指導者と代表だけで、指導幹部が完成を祝う挨拶を行った後に爆竹が鳴らされ、式典は開始からわずか8分間前後で終了になった。

実際の総投資額1800億元(約2兆7000億円)で建設された三峡ダムの完成式典はわずか数百元(約6000円)の費用で行われたのだった。

三峡ダム建設計画は世界最大のダムを建設する事業であり、中国の国家プロジェクトであった。このため、1994年12月に行われた起工式には国務院総理の李鵬が参加していたことは既に述べた通りだが、1997年11月8日に行われた「大江截流儀式(長江の流れを遮断する式典)」にも国家主席の江沢民が国務院総理の李鵬と共に参加していた。

しかし、それから8年半後の2006年5月に行われたダムの竣工を祝う完成式典には国家指導部からは誰一人も参加しなかったのであった。簡素化されたとはいえども、1994年の起工式や1997年の遮断式典との対比で考えると、誰が考えても奇異の感を禁じえないだろう。

2006年5月時点における国家主席は胡錦涛であり、国務院総理は温家宝であった。胡錦涛は清華大学水利学部の「河川中核発電所専攻」を卒業したダム発電の専門家であり、温家宝は北京地質学院の修士課程を卒業した地質の専門家である。

彼ら2人にとって三峡ダムは前任の国家主席の江沢民と国務院総理の李鵬が残した置き土産であって、専門家の目から見て決して喜ばしいものではなかったと想像される。それが証拠に、胡錦涛も温家宝も彼らの在任中に三峡ダムを視察することはなかった。

三峡ダム建設計画は、1992年4月3日に第7期全国人民代表大会第5回会議で決議されたが、当時の胡錦涛はチベット自治区党委員会書記として、また温家宝は中国共産党中央書記処候補書記として、それぞれ上述の第5回会議に参加して三峡ダム建設計画議案に対して賛成票を投じたはずである。

1992年10月に開催された中国共産党第14回全国代表大会で行われた投票によって、彼ら2人はそれぞれ中央政治局常務委員と中央政治局候補委員に選出されたが、後の出世を考えれば、たとえ本心では三峡ダム建設計画に反対であったとしても、議案の票決で反対票を投ずることはできなかったはずで、保身の思いが反対票を封じたのだろう。

習近平が21年ぶりに

上述の通り、胡錦涛も温家宝も三峡ダムを視察することはなかったが、2012年11月の中国共産党第18期中央委員会第1回会議で、胡錦涛の後を継いで中国共産党総書記に選出され、2013年3月の第12期全国人民代表大会第1回会議で国家主席に就任した習近平は、2018年4月24日午後に三峡ダムを視察した。

当日は、中国政府「交通部」部長で李鵬の息子である李小鵬が習近平の視察に随行したが、国家指導部による三峡視察は1997年11月の「長江の流れを遮断する式典」に江沢民と李鵬が参加して以来で実に21年振りであった。

2019年7月22日、三峡ダム建設計画を主導した元国務院総理の李鵬が90歳で逝去した。李鵬は1989年6月4日の天安門事件で学生弾圧に指導的役割を果たしたことで知られるが、三峡ダム建設に使う設備・資材の購入を通じて外国企業から巨額の賄賂を受けて私腹を肥やしたと言われている。

その李鵬の息子を随行させて習近平が三峡ダムを視察したことに怒りを募らせた天帝が、三峡の自然を破壊した張本人である李鵬の死を見極めた上で開始した報復が、今年の長江流域において、6月2日以来、本稿執筆時点の7月19日で連続47日間降り続く豪雨であるように思えるのである。豪雨はいつまで降り続けるのだろうか。

欠陥ダム8万2000基‼
2019年6月11日に国務院で開催された政策説明会の席上で、水利部の水害・干害防御局長の田以堂は中国国内のダムに関して次のように言及した。

「中国国内には9.8万基以上のダムが存在するが、このうちの6.6万基以上はすでに欠陥があって危険なダムであり、これ以外の1.6万基以上は現在欠陥が判明して危険なダムである。このため、早急に欠陥を取り除いて補強することが必要である。」

このデータが正しければ、欠陥があって危険なダムの総数は8.2万基(6.6万基+1.6万基)以上となり、ダム全体の84%を占める。この欠陥があって危険なダムの中には三峡ダムも含まれているはずである。

今を去ること35年前の 1975年8月5日から7日までの3日間に、河南省南部の淮河(わいが)流域では台風ニーナの直撃による特大の豪雨が襲い、8月7日24時間の降雨量は1005ミリメーターに達したという。

このため、駐馬店市に所在する板橋ダムを含む周辺のダム62基がドミノ倒しのように次々と決壊し、8.6万人が溺死した。さらに、これに水害による疫病や食料不足による非正常な死を含めた死者の合計は24万人前後に達した。

後に「河南75・8ダム決壊」と呼ばれるこの事件では、1015万人が被災し、680万戸の家屋が倒壊し、1780万ムー(約125万ヘクタール)の農地が水に浸かった。

もし三峡ダムが……
昨今、世界中で多くのメディアが三峡ダム崩壊の危機を盛んに報じているが、巨大な三峡ダムの貯水量は393億立方メートルで、日本の琵琶湖(水量:275億立方メートル)の1.43倍に相当する。

三峡ダムが黄万里の予言通りに人為的、計画的に「爆破で取り壊される」前に、天災等で崩壊したとすれば、貯水湖に蓄えられた393億立方メートルもの膨大な水が湖底に堆積する汚泥を伴って38キロメートル下流にある葛洲壩ダムを破壊し、一気呵成に湖北省の宜昌市(常住人口:414万人)から武漢市(同1120万人)へ流れ下り、さらに江西省の九江市(同492万人)から南京市(同851万人)を経て上海市(同2428万人)へと流れ込むことになる。

それが現実となることを望むものではないが、崩壊の結果が想像を絶する悲惨なものになることは論を俟たない。三峡ダムの国家プロジェクトとしての面子よりも重要なのは国民の生命と財産を守ることではなかろうか。