「限界だった」たった1人の介護の果て なぜ22歳の孫は祖母を手にかけたのか

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「限界だった」たった1人の介護の果て なぜ22歳の孫は祖母を手にかけたのか

 黒髪をキュッと結んだポニーテール。白いブラウス。顔を上げた小柄な女性(22)は、年齢より幼く見えた。

【図解】女性と親族の関係、事件に至るまで

 9月、神戸地裁。幼稚園教諭だった女性は、初めて法廷に立った。同居していた祖母(当時90歳)の殺害を認め、「介護で寝られず、限界だった」と語った。親族から介護をほぼ1人で背負わされ、仕事との両立に苦しんだ末のことだった。

 なぜ、社会人1年目の女性は「大好きだったおばあちゃん」を手にかけるまで追い詰められたのか。裁判を傍聴し、関係者への取材を重ねた。【韓光勲、春増翔太】

 ◇両親離婚、育ててくれた「大好きなおばあちゃん」

 2019年10月8日早朝、女性は神戸市須磨区の自宅で同居する祖母の口にタオルを押し込み、窒息死させた。認知症だった祖母には、徒歩5分以内に住む3人の子供がいた。女性の伯父、父、叔母だ。にもかかわらず、介護は家族の中で女性がほぼ1人で担った。

 そうなった経緯には女性の生い立ちが大きく、関係している。

 女性が3歳の時に両親は離婚。ともに暮らした母は、小学1年生の時に脳出血で亡くなった。児童養護施設に移された女性を引き取ったのが、父方の祖母だった。学費や生活費を工面してくれ、ピアノも買ってもらった。幼稚園の先生になる夢も応援してくれた「大好きなおばあちゃん」だった。

 一方、祖母には気性が激しい面があった。「あんたは借金ばかりつくった母親から生まれたんや」と、女性に存在を否定するような言葉を投げることも少なくなかったという。女性は中学生になると、精神的なバランスを崩すようになった。睡眠薬を大量に飲み、何度も救急車で運ばれた。医師からは「祖母と同居しない方がいい」とアドバイスされ、叔母の家に身を寄せた。

 短大に進学し、睡眠薬の服用もなくなった女性は夢だった幼稚園教諭として働くことが決まった。しかし、その頃から祖母の体調が悪化し始めたことで、女性の生活は再び狂い始めた。

 19年2月、祖母は自宅前の坂道で転んで入院した。アルツハイマー型認知症と診断され、排せつや身の回りのことが1人でできない要介護「4」と認定された。自宅に戻った祖母は、靴を履かずに深夜にうろつき、近所の家の呼び鈴を鳴らした。「おばあちゃんを一人で家に置いておくのは危ない」。それが親族の総意だった。

 ◇親族の協力得られず、仕事との両立に悲鳴

 誰が祖母を介護するのか。神戸市内で清掃会社を経営する伯父は仕事に忙しく、父は手足がしびれる病気だった。叔母にも小さい子供がいた。「おばあちゃんに学費を出してもらったんや。あんたが介護するのが当然やろ」。叔母の一声で、介護は女性が担うことになった。幼稚園教諭として働き始めて1カ月後、7年ぶりに祖母との同居が始まった。

 この頃、女性は高校の同級生だった親しい友人に、「祖母の介護を始めて、おむつ代や食費も自分で出している」と打ち明けている。慣れない仕事への戸惑いもこぼした。連日上司や同僚に怒られ、職場で介護の話をしても「ウソつき」と、取り合ってもらえなかったという。

 祖母は平日の日中こそデイサービスに通ったが、夜間や土日は自宅にいる。女性は毎日、仕事から帰宅した後、祖母に夕食を食べさせた。1~2時間おきにトイレに連れていき、排せつすればシャワーを浴びさせた。深夜の散歩に付き合った。1日2時間ほどしか眠れなかった。

 同居を始めて2週間で、女性は限界を察した。「介護は無理かもしれん」。父と叔母に伝えた。

 女性と親族の関係は特殊だ。中学から短大時代まで身を寄せた叔母の家では、「許可がないと遊びに行けない」と友人にこぼし、叔母の子供の面倒をみるために学校の早退や部活を休むことがよくあったという。

 裁判で検察官が読み上げた供述調書によると、伯父は女性について「明るく優しい子。きょうだいが母の世話を任せきりにしていた。重い罪は望まない」と話した。

 だが、「無理かも」とこぼした女性に、叔母は「それくらいコントロールできるやろ」と言うだけだったという。女性は祖母を担当するケアマネジャーと直接連絡を取ることも禁じられ、何を言っても「あなたが面倒をみて」。事件が起きたのは、そんな生活が5カ月続いた末のことだった。

 事件当日は、朝からどんよりと曇っていた。まだ暗い午前5時半、女性は隣で寝ていた祖母に「汗をかいた」と起こされた。

 体をタオルで拭いたが、「親をないがしろにする」と怒鳴られた。孫の自分を娘と勘違いしたのだろうか。お湯でタオルを温めて拭き直したが、今度は「あんたがおるから生きていても楽しくない」と言われた。

 「ごめんね、ごめんね」となだめたが、祖母の非難はやまなかった。気づくと、祖母の体をベッドに押し倒していた。

 「もう黙って……」

 手には、スヌーピーとピンクのハート柄が入ったフェースタオル。両手で祖母の口に押し込んだ。祖母は数分で動かなくなった。

 「おばあちゃんを殺してしまいました」。自殺未遂を図った末、女性は自ら110番した。すぐに警察官がやってきた。

 ◇「強く非難できない」判決は懲役3年、執行猶予5年

 20年9月9日から神戸地裁で始まった裁判員裁判では、女性が祖母の介護3カ月目、疲労や重度のストレスから腎臓が悪化し、重度の貧血になったことや、「軽いうつ病」との診断を受け、医師からは退職か休職を勧められていたことが明かされた。また、叔母が検察側証人として出廷し「介護は家族みんなで頑張った」と話す一方、ケアマネジャーの女性が「(祖母の)入院を勧めたが、叔母らが拒否した」と証言する場面もあった。

 事実関係は争われず、女性の責任能力が争点となった。弁護側が「睡眠不足や介護が起因の適応障害による心神耗弱」を主張したのに対し、検察側は「冷静な行動だった」と完全責任能力を指摘した。

 女性に言い渡された判決は、懲役3年、執行猶予5年(求刑・懲役4年)。飯島健太郎裁判長は「適応障害そのものが、犯行に影響を与えていない」としながらも、「介護による睡眠不足や仕事のストレスで心身ともに疲弊し、強く非難できない」と結論づけた。また、「叔母の意向に反して介護負担を軽くする策をとることはできなかった」と親族間の関係性を指摘。執行猶予がついた理由について「自首して反省を深め、社会内で更生が期待できる」とした。

 社会の中で償いの道を歩む女性だが、親族のサポートは期待できなそうだ。女性の父は、判決後の毎日新聞の取材に対し「刑務所に入るべきだ。『介護をやらされてかわいそう』との前提で判決が出ている。妹(叔母)とも話したが同じ思いだ。今後連絡することもないし、親としての愛情はない」と突き放した。

 代理人弁護士によると、女性は保護観察所を通じて住む部屋を見つけ、就職活動を始めたが、採用を問い合わせたある幼稚園に「ブランドイメージがありますから」と断られた。最近、ようやく事務職のパートを見つけたが、着る服にも事欠く生活が続いているという。

 記者は女性に直接、話を聞こうと代理人弁護士を通じて、取材を申し込んだが、返答は得られなかった。

 女性と祖母が暮らした家は事件以来、閉ざされている。玄関先に置かれたままの鉢植えは草が伸びきり、手入れするあるじの不在を告げる。「おばあさんの冥福を祈り、社会の中で更生してください」。飯島裁判長の説諭にじっと耳を澄まし、うなずいた女性は、今も険しい道を歩んでいる。

 ◇求められる「介護する側のケア」

 介護する側のケアに取り組むNPO法人「介護者サポートネットワークセンター・アラジン」(東京)の牧野史子理事長は「認知症患者の介護は過酷です。携わらなければ決して分からない」と話す。厚生労働省の統計によると、介護者が死亡させた被介護者数は10年以降、年20人台で推移している。厚労省の調査(05年)では、介護者の4分の1が「軽いうつ状態」と判明している。

 今回の事件では、女性の周囲に叔母ら複数の親族がいた。ケアマネジャーも関与し、祖母の介護について話し合う体制はあった。しかし、介護に詳しい淑徳大の結城康博教授(社会福祉学)は「周囲が女性を追い込んでいる。ケアマネジャーは、あくまで『祖母の介護をどうするか』の視点で考えるので、女性のことを考える人は誰もいなかっただろう」と推察する。

 介護の相談を担う、自治体や地域包括支援センターについても結城教授は「全て『被介護者のため』で動く機関。介護者支援は一部のNPO法人が担っているだけ」と指摘する。

 今回の事件で彼女に手を差し伸べられる人はいなかったのか。

 牧野理事長は、「まずは介護に苦しむ人を見つけ出すための調査が必要」と話す。埼玉県は20年3月、全国で初めて介護者(ケアラー)を支援する条例を制定し、手始めに「ヤングケアラー」とされる18歳未満の介護者の実態調査を始めた。

 牧野理事長は「最後の一線を越える前に女性を見つけることができたら、保健師がケアに出向くなどの支援ができたかもしれない。介護は誰もが無縁ではいられない問題。介護される側だけでなく、する側に目を向けることが、より大切になってきています」と話している。

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