「戦争ってこういう感じか」 あさま山荘、怒号飛び交う突入現場


「戦争ってこういう感じか」 あさま山荘、怒号飛び交う突入現場

荒れ果てた「あさま山荘」3階の談話室と連合赤軍メンバーが最後に立てこもった「いちょうの間」(正面後方)。間の壁は機動隊の突入で破壊された=長野県軽井沢町で1972年2月28日、中村太郎撮影

 「戦争ってこういう感じかと思った」。長野県警更埴(こうしょく)署(現千曲署)刑事課巡査だった関博徳さん(73)は救護員として現場に派遣されていた。

 立てこもりから10日目の1972年2月28日午前10時、突入が開始された。関さんはけが人が出たらすぐに出動できるように担架を持って近くで待機していた。約1時間半後、20メートルほど前にいた警視庁の部隊から「撃たれた」と叫び声が上がった。「どけ」「現場を離れるな」。怒号が飛び交う中、被弾した隊員は同僚に支えられ救急車に運び込まれた。担架に乗せる間もなかった。

 関さんは救急車に同乗したが、隊員は既に意識がなく、車内には血だまりができた。「何とか持ってくれ」。祈りは届かず、病院で死亡が確認された。亡くなった隊員は、警視庁特科車両隊の高見繁光警部(当時42歳)だった。捜査本部に殉職を伝える電話の受話器を置いた瞬間、全身の力が抜けた気がした。

 人質をすぐに救出できず、突入は同日夕まで続いた。警視庁第9機動隊警部補だった仲田康喜(こうき)さん(85)は、持っていた盾2枚で相手の銃弾を受けながら、工具などでバリケードの破壊を続けた。銃弾で崩れた壁の破片が当たったのか、ほおに何度も熱い衝撃を受けた。

 午後6時過ぎ、壁に開けた穴から後続部隊とともになだれ込んだ。目の前に出てきた腕を、犯人だと思ってつかんだ。「私、違います」。事前に写真で顔を確認していた人質の女性だった。人質を無事に救出できたことは誇りだが、警察官2人の殉職には今もやりきれなさが残る。

 事件で逮捕された5人のうち坂東国男容疑者(75)は、75年にマレーシアの米大使館などが占拠されたクアラルンプール事件を受けた超法規的措置で釈放され、今も国際手配されている。2人の元警察官は口をそろえた。「全員が捕まるまで事件が終わったとは言えない」【斎藤文太郎】

 ◇あさま山荘事件

 1972年2月19~28日、長野県軽井沢町にある保養所「あさま山荘」に新左翼組織「連合赤軍」のメンバー5人が管理人の妻を人質に立てこもった。警視庁と長野県警の部隊がクレーンにつり下げた巨大な鉄球で外壁を壊した10日目の同28日、強行突入して人質を救出したが、警視庁の内田尚孝警視(当時47歳)=警視長に2階級特進=と高見繁光警部(同42歳)=警視正に2階級特進=が銃撃され死亡。他に山荘に近づいた一般市民の男性1人も撃たれて亡くなった。その後、仲間14人をリンチなどの末に死亡させていたことが発覚。学生運動や新左翼運動が退潮するきっかけとなった。



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