「死は避けられぬ運命。だから私たちは全力で生きる」- 日航機墜落で救いをもたらした教諭の遺したメッセージ

昇魂之碑
(画像提供:日本ニュース24時間)

1985年の夏、井坂かおるさんは教員としてのキャリア4年目を迎えた頃、飛行機に乗っていました。アメリカからの家族旅行から帰る途中、日本では衝撃的な出来事が起こりました。群馬県の山中に墜落した羽田発大阪行きの日航ジャンボ機のニュースを目にしたのです。

井坂さんは機内で新聞を見つけ、驚きを禁じ得ませんでした。墜落した飛行機の乗客リストには、仲の良い同僚3人の名前が載っていたのです。彼女はその時、まさかこの後に訪れる混乱と苦難を予測することはできませんでした。

体育館で見つかった先輩の遺体

遺体安置所
(画像提供:日本ニュース24時間)

1985年8月12日の墜落事故では、乗客乗員のうち520人が亡くなりました。その中には神戸市の親和女子高校の教諭、水落哲子さん(当時52歳)、瀬良直司さん(同36歳)、田中一文さん(同35歳)も含まれていました。3人は東北地方への修学旅行の下見からの帰路でした。

井坂さんは帰国翌朝、学校に行かされました。「水落先生の身元確認を手伝ってほしい」と頼まれ、遺体安置所となっていた群馬県藤岡市の体育館に向かったのです。

水落さんは井坂さんにとって親しい先輩でした。既に同僚の男性教諭や家族が現地に到着していましたが、身元確認が困難だったとのこと。井坂さんは、直前のクラブ合宿で一緒に行動していたことから、「服装の特徴から同定できるのではないか」と考えたのです。

夕方、藤岡市の体育館に到着すると、見たこともないほどの数の遺体がひつぎに納められていました。館内では遺体の特徴が放送され、一人ひとりの特徴を必死に聞き入れました。

しかし、「10代の男性、両眼コンタクト」というアナウンスを聞いた瞬間、井坂さんは耳を塞ぎたくなるような感情を抱きました。

麦わら帽子で隠された顔、別れの言葉が交わせず

遺影の祭壇
(画像提供:日本ニュース24時間)

水落さんの遺体はすぐに見つかりました。井坂さんは直接会おうとしましたが、先に確認をしていた男性教諭が「見ない方が良い」と告げ、遺体に麦わら帽子をかぶせました。最後に顔を見ることなく別れを告げることになりました。

井坂さんはその年、1年生の担任を務めていました。亡くなった3人も同じクラスでした。彼らは井坂さんにとって憧れの先輩であり、担任になることを楽しみにしていました。

水落さんは学年主任で、中高一貫の学校なので、井坂さんは教員1年目から同じ学年のクラスを担当し、教員としての心構えを教えてもらいました。生徒を引率する旅行では、「服装に変化をつけてみるように」とアクセサリーをプレゼントしてもらったこともありました。

田中さんはおしゃれでかっこよく、一緒に飲みに行った際には「生徒にとって一番近い存在でありたい」と教員としてのこだわりを熱く語っていました。瀬良さんは授業の力量があり、温和で真摯な人柄でした。学校の中心的な存在でもありました。

井坂さんの日誌は、生徒たちの混乱を鎮める効果があったと言います。彼女は「必ずいつかは死ぬ。だから精一杯生きよう」というメッセージを残しました。この言葉は生徒たちに力を与え、彼らの心を癒しました。

この墜落事故は日本の歴史においても大きな出来事であり、多くの犠牲者が出ました。しかし、井坂さんと彼女の先輩たちの存在は、生徒たちに勇気と希望を与えるものとなりました。

引用元:Yahoo!ニュース

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