伝説の猟師、山本兵吉:三毛別羆事件の英雄、その知られざる真実

北海道の開拓時代、人々を恐怖に陥れた巨大ヒグマ。その凶悪な獣を仕留めた英雄、山本兵吉。三毛別羆事件でその名を歴史に刻んだ彼の人生は、数々の謎に包まれています。本記事では、その知られざる足跡を辿り、伝説の猟師の真実に迫ります。

鬼鹿村への入植と謎の転居

山本兵吉は山形県出身。ニシン漁で賑わう北海道、鬼鹿村へと移住しました。鬼鹿村会議員の瀧川司氏によると、兵吉の居住地はかつて「住吉」という名家の旅館があった場所。当時の鬼鹿村はニシン漁で栄え、多くの出稼ぎ漁師が訪れていました。住吉家は旅館業などを営む地元の名家で、兵吉一家も彼らと共に鬼鹿村に移り住み、住吉家に身を寄せた可能性が高いと瀧川氏は推測しています。

alt鬼鹿村の風景。山と海に囲まれた自然豊かな場所。alt鬼鹿村の風景。山と海に囲まれた自然豊かな場所。

戸籍によると、兵吉は明治31年に小樽市稲穂へ転居し、翌年には再び鬼鹿村に戻っています。この短期間の転居の理由は謎のままです。

樺太での経験と猟師への道

兵吉の妻、谷下ふよの戸籍には「オンネの沢」という記載があります。これは鬼鹿市街地から2キロほど内陸にある田代集落のこと。このことから、兵吉が猟師として生計を立てていたことが推測されます。

alt山本家の墓。墓誌には兵吉の名が刻まれている。alt山本家の墓。墓誌には兵吉の名が刻まれている。

しかし、兵吉がどのようにして銃の扱いを習得したのかは不明です。地元住民の木村氏によると、兵吉は若い頃、南樺太(サハリン)に渡っていたといいます。当時、南樺太は日本人やロシア人などが居住する雑居地でした。兵吉がそこで漁師として働き、銃の技術を学んだ可能性があります。「サバサキ包丁でヒグマを刺し殺した」という逸話も残っており、彼が厳しい環境でサバイバル術を身につけていたことが伺えます。

明治18年のヒグマ襲撃事件

明治18年、鬼鹿村で発生したヒグマ襲撃事件を伝える新聞記事が存在します。この記事は、ヒグマの凶暴性と当時の村人の恐怖を鮮明に描写しています。兵吉が活躍する三毛別羆事件以前にも、人々はヒグマの脅威に晒されていたのです。

alt開拓時代の家屋。簡素な造りで、ヒグマの襲撃に脆弱だったことが想像できる。alt開拓時代の家屋。簡素な造りで、ヒグマの襲撃に脆弱だったことが想像できる。

この事件は、後の三毛別羆事件へと繋がる伏線とも言えるでしょう。兵吉は、こうした厳しい現実の中で、人々を守るために猟師としての道を歩み始めたのかもしれません。彼の勇気と行動力は、まさに伝説にふさわしいものです。