アウシュビッツ強制収容所解放から80年。想像を絶する過酷な状況を生き抜いた人々の証言は、歴史の重みを私たちに伝えています。今回は、ポーランド出身でアウシュビッツから生還し、イスラエルで暮らすハリーナ・ビレンバウムさん(95歳)のインタビューを通して、当時の様子や彼女が得た教訓を紐解いていきます。
ワルシャワでの生活とドイツ軍侵攻
ワルシャワでの生活とドイツ軍侵攻
1929年、ポーランドの首都ワルシャワで生まれたビレンバウムさんは、両親と二人の兄と共に幸せな日々を送っていました。しかし、1939年、ナチスドイツのポーランド侵攻により、平穏な生活は一変します。夜間外出や通学は禁止され、人々は不安と恐怖に怯える日々を過ごしました。それでも、互いに励まし合い、希望を捨てずに歌を歌って過ごしたといいます。
ゲットーでの生活と家族の離散
ワルシャワはゲットー化され、ビレンバウムさん一家も壁に囲まれた区域での生活を強いられます。食料不足は深刻で、餓死した人々の遺体が放置されるという悲惨な状況でした。1942年7月、「東部へ労働に行く」という触れ込みと共に、ユダヤ人たちは次々と強制連行されていきました。ビレンバウムさん一家は地下室などに隠れ、連行を逃れようとしますが、結局はドイツ兵に見つかってしまいます。当時13歳だったビレンバウムさんは、母に「17歳と言いなさい」と指示されます。労働力と見なされれば生き残る可能性が高かったからです。
集合場所では、ドイツ兵の銃口が向けられ、今まさに殺されるという恐怖に直面します。混乱の中、父はドイツ兵に殺害され、残された家族は排水溝に逃げ込み、再びゲットーへ戻ります。
ゲットー蜂起とアウシュビッツへの移送
1943年4月、ワルシャワ・ゲットー蜂起が起こります。ビレンバウムさん一家も地下壕に身を隠しますが、再びドイツ兵に見つかり、貨車に詰め込まれてアウシュビッツへと送られます。100人以上が押し込められた貨車内は酸素も薄く、まさに地獄絵図でした。
アウシュビッツでの過酷な日々
アウシュビッツでは想像を絶する過酷な労働を強いられ、多くの仲間が命を落としました。ビレンバウムさんは、人間がどこまで残酷になれるのか、そして同時に、極限状態でも生き抜こうとする人間の強さを目の当たりにしたといいます。
証言の意義
ビレンバウムさんの証言は、ホロコーストの悲劇を風化させないために、そして未来への教訓として、私たちに語り継がなければならない貴重なものです。彼女が経験した苦難とそこから得た「人間の非道さと強さ」についての洞察は、現代社会に生きる私たちにも深い問いを投げかけています。 平和な世界を築くため、私たちは過去の過ちから学び、二度と同じ悲劇を繰り返さないように努力していく必要があるでしょう。