ビルマ戦線「飢餓とマラリア」の極限で見た人間の尊厳:武居正利氏の手記より

第二次世界大戦中、日本軍が壊滅的な敗北を喫したインパール作戦に続くビルマ戦線は、飢餓と病が兵士たちの命を奪う極限の地となりました。マラリアが蔓延し、多くの兵士が餓死や病死に倒れる中、一角の小部隊がマラリアに冒された現地の一家と遭遇します。手元には数少ないマラリア治療薬・キニーネ。彼らが下した決断とは何だったのか。本稿では、ビルマで実際に戦った武居正利氏が『週刊朝日』に寄せた手記(『父の戦記』より抜粋・編集)に基づき、絶望的な戦場で垣間見えた人間の尊厳と葛藤に迫ります。

飢餓と病が支配するビルマ戦線:禿鷹とマラリアの道

気の遠くなるような山並みがどこまでも重なり、果てしなく続く白茶けた道。戦火に焼かれた無人部落と、屍肉をあさる禿鷹の群れ以外に、目を引くものとてない単調な日々が、ビルマ奥地のいわゆる援蔣ルート(援蒋ルート)を進む日本兵を苛んでいました。炎熱と際限ない道との戦いは、兵士たちから時間と空間の観念を奪い去り、ついには敵の存在すら忘れてしまうほどに疲弊させていったのです。

沿道の数少ない変化の中で兵士たちの目を慰めたのは、部落ごとに必ず見られる美しい白堊(はくあ)のパゴダ(仏塔)でした。しかし、陽炎が燃え盛る真昼、犬の子一匹見当たらない無人部落を通過する際、パゴダの頂から下がる鈴が「チリンチリン」と風に鳴る音を聞くたび、筆舌に尽くしがたい不気味な孤独感に襲われたといいます。そして、そんな部落の道路に面した壁のあちこちには、「マラリアと東洋鬼(日本軍)撲滅」と原色で書かれた壁画がべたべたと描き連ねられており、兵士たちの気分を一層滅入らせました。

やがて、どこからともなくむせるような草いきれに混じって、あの吐き気を催すような腐乱死体の臭いが鼻をついてきます。「またか……」と顔をしかめる間もなく、騒々しい羽音と鋭い鳴き声が響き渡り、白昼夢のようなすさまじい光景が展開するのです。それは、兵士の屍に群がる禿鷹(はげたか)の大饗宴でした。伝令のK上等兵は「あんな気味の悪い、小癪にさわる奴はありませんね。ジロッとこっちを見て、そのうちお前もこんなにして食ってやるぞというような顔をしやがるんですよ。つい1発ぶっぱなしたくなりますね。なにしろ石をぶっつけたくらいじゃびくともしやがらねえんだから」と口癖のように語っていたといい、この光景は何度目にしても慣れることのできない、ビルマ戦線最悪の思い出の一つとして深く記憶に刻まれています。

極限状況下での出会い:マラリアに侵されたビルマ人家族

マラリアと飢餓に苦しむビルマ戦線のイメージマラリアと飢餓に苦しむビルマ戦線のイメージ

昭和17年5月、快速平井兵団に配属され、北部ビルマの要衝ラシオからさらに奥地へと、禿鷹とマラリアが跋扈するこの道を進んでいた機械化野戦重砲中隊の私たちは、白昼、突然ジャングルから飛び出してきた2人のビルマ人少女によって足止めを食らいました。初めて見る日本兵への恐れさえ忘れたかのようなその必死の姿には、何か尋常ならざるものを感じずにはいられませんでした。

「助けて下さい。みんな死にます。マラリアで、みんな死にます」と、涙で顔をくしゃくしゃにしながら16、7歳くらいの年かさの娘が英語で助けを求める傍らで、12、3歳くらいの妹らしき方が道の傍らを指差しながら、理解不能な言葉を口走り続けています。「お父さんもお母さんもマラリアです。弟たちはみんな死にました。赤ん坊も死にそうです。どうか助けて下さい」と娘は必死に訴えます。少女たち自身の顔もまた、マラリア患者特有の不気味な黄色い黄疸症状を呈していました。私は部隊に小休止と警戒配備を命じた後、曹長と伝令を伴い、娘たちについて行くことにしました。道路から少し茂みの中に入った場所に、今にも壊れそうな掘立小屋があり、一歩その中に足を踏み入れた私たちは、思わず息をのんだのです。

戦争の悲劇の中で問い直される人間の価値

飢餓と病、そして死が日常と化したビルマ戦線の極限状態において、武居正利氏が目撃したのは、兵士たちの疲弊と同時に、マラリアに苦しむビルマ人家族の悲痛な叫びでした。この遭遇は、敵味方という隔たりを超え、人間の普遍的な苦しみと、それに対する僅かながらも存在する共感や助け合いの精神を浮き彫りにします。手記は、絶望的な状況下で兵士たちが直面した倫理的な選択、そして生命の尊厳を問いかける重いテーマを提示しています。この後の「決断」が何であったかは、私たちが戦争における人間の行動と心のあり方について深く考えるきっかけとなるでしょう。


参考文献

  • 週刊朝日編『父の戦記』(朝日新聞出版)
  • Yahoo!ニュース (記事元)
  • ダイヤモンド・オンライン (記事元)