昭和45年8月、埼玉県戸田市で発生した一家四人殺害事件は、発生からわずか2週間で重要容疑者Tの存在が浮上した。被害者の実弟であるTは、事件の約2カ月前に刑務所を出所後に行方が分からなくなっていた。埼玉県警捜査第一課は、Tが潜伏している可能性のある東京・山谷の簡易旅館を徹底的に捜索するも、足取りは依然として掴めない。一見順調に見える捜査に立ちはだかる壁を、刑事たちはどのようにして打ち破り、被疑者逮捕へと至ったのか。本稿では、その執念の捜査の舞台裏と、ベテラン刑事たちの巧みな技術に迫る。
埼玉県警「元老」に受け継がれる捜査哲学
埼玉県警捜査第一課には、卓越した功績を持つ刑事に「元老」という称号を贈る伝統がある。初代元老は、身内の罪人であろうと躊躇なく逮捕状を請求する一本気な「オオカミ刑事」として知られ、警視庁の平塚八兵衛氏とも並び称される存在だった。二代目元老は、鑑識の重要性を説き、「ブツに聞く捜査」で近代捜査の基礎を築き、三代目は現場主義で「聞き込みの名人」として名を馳せた。
この戸田一家四人殺害事件の捜査本部にも、後に「元老」候補となる警部補(43)が配置された。彼は取り調べの巧みさで知られ、難航する被疑者からも自供を引き出す技術に長けていた。その要諦は「現場百篇」。事件現場を徹底的に見つめることで、同じ場面を目にした被疑者の心情に深く訴えかけることができる。そして、常に「打てば響く」という応答性を意識した調べを基本としていた。
ベテラン刑事が供述を引き出す、戸田一家殺害事件の取り調べイメージ
執念の張り込みが繋いだ容疑者Tへの道
重要容疑者として浮上した被害者Aさん(40)の実弟、T(34)の足取りは掴めないまま、捜査は難航していた。しかし、わずかな可能性を信じ、Aさんの実家を密かに張り込み続ける刑事がいた。彼らが特に注目したのは、Tの母親だった。
「素行は悪いが母親想いの面があり、よく電話をかけてくるらしい」という、薄い情報ではあったが、捜査員たちはその可能性に賭け、毎日実家への聞き込みと張り込みを継続した。そして、事件発生から16日目となる昭和45年8月26日、ついにその時が訪れる。
「午前中にTから電話が入ります。応対した母親の様子に不自然さを感じた捜査員が問いただすと、当初母親はTではないと否定しましたが、『正直に話して欲しい』と説得を重ねると、電話がTからのものだと認めたのです」(前出の元社会部記者)
電話口でTは「お袋か?Tだよ。働いているよ。心配するな」と告げた。母親が「今、どこにいるんだい?」と尋ねると、Tは「旅館に泊まっているんだ。明日、出張するから、蒲田の西口へ3〜4万持ってきてよ」と具体的な情報を与えた。この貴重な情報は即座に、東京都内の山谷地区を捜索していた捜査員たちに伝えられた。話を聞くやいなや、「すぐに行くぞ」と飛び立った4人の捜査員。その中には、取り調べの名手である「元老」候補の警部補も含まれていた。執念の捜査が、ついに被疑者逮捕へ向けた確かな一歩を踏み出した瞬間だった。
昭和45年戸田市一家四人殺害事件の捜査は、被疑者Tの浮上からその追跡まで困難を極めた。しかし、埼玉県警の「元老」に受け継がれる「現場百篇」の捜査哲学、特に卓越した取り調べ技術と、母親への地道な張り込みという執念が、遂にTの潜伏先と接触の機会を明らかにした。この突破口は、長年の経験と勘、人間関係を読み解く洞察力の結実と言える。次なる焦点は、この重要な手がかりを活かし、いかにして容疑者を確保し、事件の全容解明へと繋げていくかにある。





