面影橋の歴史と文化的背景
筆者(増淵敏之、文化地理学者)は先日、所用で早稲田大学に行く際、王子から面影橋(東京都新宿区)まで東京さくらトラム(都電荒川線)に乗った。この路線は東京に残された最後の都電である。普段は地下鉄東西線早稲田駅を使うことが多いが、今回は王子からということもあり、路面電車を利用することにした。
【画像】「なんとぉぉぉぉ!」 これが35年前「面影橋」です! 画像で見る(12枚)
面影橋は江戸時代から神田川に架かっていたとされ、その歴史は深い。諸説があるが、江戸時代には「姿見橋」と呼ばれ、蛍の名所としても知られていたという。神田川の北側を流れる小川に架かっていた橋だという説もある。この説では、歌川広重の「高田姿見のはし俤の橋砂利場」において、手前の神田川を渡る橋が「姿見の橋」、奥の小川に架かる橋が「俤の橋」と描かれている。
面影橋の近くにはその由来を解説する案内板があり、さまざまな説が紹介されている。近年では桜の名所としても有名で、さらには江戸城を築城した太田道灌の「山吹伝説」にまつわる場所としても知られている。
フォークの名曲「面影橋」の誕生
面影橋といえば、筆者は世代的にNSPの「面影橋」を思い出す。この楽曲は、恋心を抱く友人の彼女を面影橋まで送るというエピソードが描かれている。筆者が学生時代、岩手県から登場したNSPは1973(昭和48)年に「さようなら」でデビューし、その後
・夕暮れ時はさびしそう
・赤い糸の伝説
・冬の花火は思い出花火
などのヒット曲を生み出した3人組のフォークグループだった。繊細で抒情的な楽曲は多くの若者の心を捉え、1979年の「面影橋」もその代表曲のひとつである。
大半の楽曲を作詞・作曲していたメインボーカルの天野滋は2005(平成17)年に亡くなり、メンバーの中村貴之も2021年に鬼籍に入った。現在、残されたメンバーは平賀和人のみとなった。NSPは一関工業高専の同級生で結成されたが、それでも日本のポップミュージックの歴史を語る上では欠かせないフォークグループであったといえる。