1945年8月6日、9歳のときに広島の爆心地で被爆し、母と弟を亡くした友田典弘さん(89)。家族を失い“孤児”となった友田さんはその後、韓国に渡るが、朝鮮戦争に巻き込まれてしまう。何とか生き延びて24歳で帰国し、現在は大阪で暮らしながら自身の体験を後世に語り継いでいる。
【衝撃画像】「全身が焼けた遺体を見たら、弟だった」原爆で亡くなった友田さんの家族を写真で見る
友田さんは爆心地で、いったい何を見たのか。「原爆孤児」になったあと、なぜ韓国へ行くことになったのか。ノンフィクション作家のフリート横田氏が、友田さんの波乱の半生を取材した。(全2回の1回目/ 2回目 に続く)
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爆心地からたった480mほどの場所で被爆
昭和20年8月6日午前8時15分、広島市街地上空に到達したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」号は、人類史上はじめて、35万もの生身の人間のうえに、原子爆弾を投下した。
地上600mほどで核爆発を起こすと瞬時に巨大な火球が発生、放出される熱線は爆心地周辺の地表面を摂氏3000〜4000度で焼き尽くし、爆風はあらゆるものをなぎ倒しながら秒速440mで拡大、約10秒でほぼ市街全域へ到達した。爆心地から500m以内で被爆した人は、98%が亡くなったと言われている。
爆心地からたった480mほど、原爆ドーム(広島県産業奨励館)の立つ学区にあった袋町国民学校はひとたまりもなく、その日学校にいた100名を超える生徒たちは、ほぼ全員が亡くなった。たった3人の生徒と教師1名をのぞいて。
全身が焼けた子どもの遺体は弟だった
生存者の1人、当時4年生・9歳だった少年が、今年90歳を迎える友田典弘さん。爆心地付近で被爆してご健在の友田さんは、貴重な証言者といっていい。
「地下に降りた瞬間にピカーっと光った。それで飛ばされて、腰を打って。(地上にあがっていったら)……まっくろけ」
学校の地下に下駄箱があり、遅刻した友田さんが上履きに履き替えていた瞬間、閃光と爆風を浴びて吹き飛ばされ、腰を強打して気絶。目を覚ますと、砂埃が舞い上がる地下室は真っ暗だった。這い出して階段へ進むと、目に入った子どもの遺体。全身が焼けていたが、焼け残った靴に、母の字で「友田」と記してあるのが見えた。弟だと分かった。