日露戦争の「二〇三高地の戦い」…その「すさまじい激戦ぶり」を描いた「名文」をご存知ですか?


司馬遼太郎の見識

【写真】これは貴重…! 日露戦に臨む日本軍の姿

少し目線を高くして、巨視的にものごとを見る必要性や、「歴史に学ぶ」必要性を感じる機会が増えたという人も多いのではないでしょうか。

「歴史探偵」として知られる半藤一利さんは、なぜ日本が無謀な戦争に突っ込んだのかについて生涯にわたって探究を続けた作家・編集者です。

半藤さんの『人間であることをやめるな』(講談社文庫)という本は、半藤さんのものの見方のエッセンス、そして、歴史のおもしろさ、有用性をおしえてくれます。

本書には、作家・司馬遼太郎の見識の鋭さを紹介する章があります。

司馬が『坂の上の雲』に記した名フレーズを、その歴史的背景をおぎないつつ解説するという趣向です。たとえば、日露戦争における二〇三高地の戦いの意味、そしてその激しさについて紹介した部分は圧巻です。

『人間であることをやめるな』より引用します(〈〉の中が、司馬の文章です)。

***

〈この十一月二十七日は、旅順攻撃の戦史上、記念すべき日であった。この日の午前三時、乃木希典は、こんどの総攻撃の失敗が顕著になってくるにともない、ついにいままでの作戦思想をみずから修正し、攻撃の力点(重点というほどではない)を問題の二〇三高地にかけてみようと決心したのである。我を折ったわけであった。(中略)

「二〇三高地に向かうとの電信に接し、来客中なりしに覚えず快と叫び、飛び立ちたり」

と、長岡は書簡でいう。

「もしこの着意、早かりせば、勅語を賜うまでにも至らざるべく、一万の死傷を敢えてするにも及ぶまじく……」

と、長岡は書いている。ともあれ、児玉が南下中のいま、乃木は二〇三高地を攻めている。  ──「二〇三高地」より〉

日露戦争がはじまって、司馬さんはその戦況をさながら特派された観戦記者のように、詳細に描いている。とくに、いくつもの章にわたって、乃木希典大将指揮の第三軍の旅順要塞攻略戦について。が、その間じゅう、少々乱暴な勘ぐりながら、司馬さんは腹を立てていたのではないか。甚大な損耗をだした第一次、第二次、第三次総攻撃の失敗は、第三軍司令部の愚策による以外のなにものでもない。とくに伊地知幸介参謀長の愚劣さ、それを司馬さんは罵るかのように書いている。

それが、十一月二十七日、やっと乃木は自分の判断で、二〇三高地に攻撃の力点を変換することを決意する。さぞや司馬さんもホッとしたことであろう。そこで「記念すべき日」とし、参謀次長長岡外史少将の書簡に仮託して「覚えず快と叫び、飛び立」っている。

開戦前には、旅順要塞は相手にせず、というのが陸軍中央の基本的な戦略方針である。大連湾に上陸し、背後の旅順要塞などにかまわずに北進し、野戦において連戦連勝してゆけば、旅順要塞は立ち腐れてしまう。捨てておくほうが賢明なりという判断であった。

ところが、ギリギリの段階で、海軍から陸から攻撃してほしいとの依頼がとどけられた。そこで急ぎ第三軍が編成される。とはいえ、はじめは強い要請ではなく、要は旅順艦隊を引っ張り出して決戦にもちこみ、撃滅できればそれで万事解決。それが叶わなかった場合には、という条件つきの依頼であったのである。

つまり、海軍とすれば、敵艦隊が旅順港内に籠もってしまい、バルチック艦隊の来航を待って、日本の二倍の兵力となってから決戦にでられたら、勝算は覚束ない。それがいちばん困るのである。ゆえに、旅順艦隊をとにかく撃滅しておかねばならない。そこで港内に籠もった敵艦を撃滅するためにも、弾着観測所の置ける山を占領し、そこから陸軍砲をもって攻撃してもらいたい、それが海軍の要請であった。「ところが」と司馬さんは書く。「乃木軍が要塞をすっかり退治してしまおうとおもったところに、この戦史上空前の惨事(戦争というよりも)がおこったのである」(「二〇三高地」)と。

事実は、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、わざわざ参謀土屋中佐を送り、第三軍首脳と会い、真に希求する攻撃目的は要塞攻略にあらず、港内の旅順艦隊の撃滅にあることを、懇切丁寧に説明させている。同時に大本営にも切々としてこれを要求する。そう考えると、この十一月二十七日の乃木の決断が、ホッとするものであったことがわかる。司馬さんのいうとおり、乃木司令部はまことに空前に愚かな作戦をつづけていたのである。

こうして二〇三高地にたいする攻撃がはじまった。司馬さんはその死闘のさまをかなり力をこめて描いている。あるいは名文としてこっちのほうをあげるべきなのかもしれない。

〈二十九日から三十日にいたる二〇三高地の攻防戦の惨況は、言語をもってこれを正確につたえることは不可能であろう。千人が十人になるのに、十五分を必要としないほどの損耗であった。それでもなお、二〇三高地の西南の一角に、るいるいたる日本兵の死骸の山のなかに生者がいた。その生者たちは砲弾の炸裂のなかでなお銃を執って、槓桿を操作し、撃鉄をひき、小銃弾を敵のベトンにむかって発射しつづけていた。  ──「二〇三高地」より〉

その激越この上ない戦闘の続行中に書かれた面白い手紙をご紹介しよう。第三軍に連合艦隊から派遣されていた参謀岩村団次郎中佐にあてて、連合艦隊作戦参謀の秋山真之中佐が書き送ったもの。『坂の上の雲』には出てこない。

まず十一月三十日付け。

実に二〇三高地の占領如何は、大局より打算して、帝国の存亡に関係し候えば是非決行を望む。察するに敵が斯く迄も頑固に死守するだけ彼等にとりて旅順の価値が貴重にして、敵にも旅順の存亡が国家の存亡に関するものにて、バ艦隊来るも旅順艦隊あらざる時は、我に対し勝算ある攻撃を取ること能わざればなり。之を以って観るときは、旅順の攻撃に四、五万の勇士を損するも左程大なる犠牲にあらず。

秋山は、ともかく、旅順艦隊を壊滅させることこそが、日露戦争の天王山と考えていた。そのために、四、五万の犠牲もあえて顧みず、二〇三高地を攻略せねばならないのである。

この日は、第三軍が新鋭の第七師団を二〇三高地攻撃に投入し、司馬さんの書くように、大激戦ののちその一角を占拠することに成功した日である。しかし、翌十二月一日、占領地はロシア軍の反撃で奪回される。同日、満洲軍総参謀長児玉源太郎大将が第三軍司令部に到着、実質的に攻略戦の指揮をとることになった。

つぎは十二月二日付け。

先々便にて申上候ごとく、二〇三高地は旅順の天王山というよりは、日露戦争の天王山なれば、敵が死力を尽して回復を計ることも当然にて、旅順も二〇三高地のために陥落し、露国も二〇三高地のため敗滅せんこと、小生予言するを憚らざるところに御座候。

いかがであろう。あっぱれな秋山の戦略観ということができようか。児玉が旅順に赴いてきたのも、ここが戦争の天王山との、秋山と同じ観点に立っていたためかと思われる。残念ながら、第三軍の参謀たちのだれひとりとして、この先見をもったものはいなかった。

さらに十二月四日付けのもの。

海軍の見地より言えば、旅順の敵艦隊だに片づけば、要塞は陥落せざるも来年五、六月迄現状維持ままにて左程苦痛を感ぜず。蓋し旅順の残艦隊滅亡するときは、独り旅順の価値を無くするのみならず、バ艦隊も旅順艦隊の合同を得るにあらざれば、我に対し十分の優位位置に下立つ能わず。従って攻勢を取るの余力無く海上を制圧するの望もなし。況や我は十分の自信ありて、バ艦隊だけなれば、見事に撃滅せんとの勝算あるに於てをや。

ここには、秋山参謀の胸中の旺盛なる自信が語られている。バルチック艦隊だけなら見事に撃滅してみせてやる、との壮語がまことに興味深い。そのためにも、旅順残存艦隊の撃滅が第一の条件、と第三軍の奮戦に満腔の期待をよせている。『坂の上の雲』には、この秋山の手紙のことはいっさい出てこない。やむを得ない事情があるが、残念なことと思っている。

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戦争というものの複雑さ、難しさ、悲惨さ……さまざまな側面が伝わってくる一節です。

さらに【つづき】「日露戦争がはじまった直後、明治天皇が放った「驚きの一言」」の記事では、日露戦争開戦に至るまでの経緯を紹介しています。

講談社文庫出版部



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