高校国語教員だった私は、映画への想いたちがたく、年金がもらえる年齢に達したこともあり、映画史研究を志して退職した。その平成8年8月、渥美清さんの訃報に接してがっくりした。同時に、退職後人生も少し方向を変えることになった。
その秋、地元の三重大学から「映画講座」を開設するので担当を、との話が来た。私は『男はつらいよ』が中心でもよいかと問うた。寅さんづくめでは国立大学も困るだろうとの気分と、山田洋次映画を「学芸」と位置づけての鑑賞は当然だろう、との相反する予想をもったのである。回答は「ご自由に」だった。がぜん私は若者に映画の楽しみを語りたいと思った。
大教室に学生が集まり寅さんに笑って泣いた。授業時間は90分なので100分の映画を見るのは難しい。講座を昼食前に設定し、「映画の感想も書かねばならないし、昼休みにくい込む延長になる」と講座オリエンテーション(説明)をした。予想以上の学生が受講することになった。彼らは、無料の映画鑑賞で単位取得できるのなら多少の延長も我慢すべしと教室へ集まってきたのである。以後、映画をまるごと鑑賞、毎時間リポート、という方式が定着して、3つの大学で17年間続くことになった。
渥美清没後半年だったから、若者も寅次郎と渥美を知っており、まだ『男はつらいよ』は確たる市民権をもっていた。「オープニングの曲を聞いて、おじいちゃんがよくみていたことを思い出した」と書いた学生がいた。
この講座で初めて『男はつらいよ』を丸ごと見たという学生の感想文を紹介する。「寅さんが嫌い。もう近くにいたらムカついて耐えられません。お見合いとか、イライラする。映画はすごく面白いけど、あー、あんな人が近くにいたら嫌い(笑)。バイト先にいるクレーマーのおじさんみたいで苦痛でした。いい映画なのに、あー、許せない」。一人の若者のなかで「可」と「否」が共にある。
そのうちに講座生以外のもぐり学生が出てきて、立ち見の出る日があるようになった。珍しい講座だということで、スポーツ日刊紙芸能担当からの取材依頼がきた。テレビ局がカメラをかついで教室に入ってくることにもなった。