【大阪万博の遺産】太陽の塔、解体危機からの奇跡の復活劇

太陽の塔。1970年大阪万博の象徴として、岡本太郎氏の手によって生み出されたこの巨像は、実は一度は解体の危機に瀕していた。今回は、万博閉幕後、撤去の危機から奇跡の復活を遂げた太陽の塔の歴史を紐解いていく。

撤去対象だった太陽の塔

1970年の大阪万博は、多くのパビリオンが閉幕後6ヶ月以内に解体されるという条件で開催された。これは世界的な博覧会の標準的な慣行であり、長期的な保存は想定されていなかった。万博終了後、多くのパビリオンが次々と姿を消していく中、太陽の塔も例外ではなく、当初は「保留」という曖昧な状態に置かれていた。

1972年、日本万国博覧会記念協会は、太陽の塔を含む記念公園の開発計画を発表。その中で、維持費の高騰を理由に太陽の塔を1976年度に解体する方針を決定した。爆破による撤去案まで検討されていたというから驚きだ。

太陽の塔(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)太陽の塔(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

高校生の手紙が未来を変えた

しかし、太陽の塔の運命を大きく変える出来事が起こる。1974年、大阪の高校生、藤井秀雄さんが新聞で撤去計画を知り、日本万国博覧会記念協会に手紙を送ったのだ。「夢と希望を与えてくれた太陽の塔を壊さないでほしい」という切実な訴えは、大きな反響を呼び、保存を求める署名活動へと発展。そして1975年、ついに太陽の塔の永久保存が決定された。

一人の高校生の行動が、未来を変えた瞬間だった。当時の新聞記者が藤井さんの自宅に取材に訪れたという事実からも、この出来事がいかに社会的に大きなインパクトを与えたかがわかる。

未来への希望を託されたシンボル

高度経済成長期の真っただ中、太陽の塔は未来への希望を象徴する存在だった。多くの人々にとって、それは単なるモニュメントではなく、未来への夢や希望が詰まった特別な存在だったのだ。

世界最大級の木造建築「大屋根リング」世界最大級の木造建築「大屋根リング」

1970年の万博を経験した世代にとって、それは単なるイベントではなく、日本の未来そのものだった。そして、太陽の塔はその象徴として、今もなお人々の心に生き続けている。解体の危機を乗り越え、未来へと受け継がれていく太陽の塔は、私たちに未来への希望と、未来を切り開く勇気を与えてくれるだろう。