三島由紀夫の“静かな死” 「死ぬ当日、楯の会の一人に託して私に渡した手紙には…」


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あの「三島事件」で、もし自衛隊か警察が銃を使っていたら…

 あの「三島事件」で、もし自衛隊か警察が銃を使っていたら、事件は実際とは全く異なる終わり方をしていただろう。現場は陸上自衛隊駐屯地内、飛び道具には事欠かない。人質も犯人5人も全員が至近距離にいて、丸見えである。威嚇射撃も急所を外して撃つことも、造作なくできた。また、もし銃弾が誤って人質になった益田(ました)兼利総監に当たっても……バルコニーからの演説や野次、まして切腹は、あったかどうか分らない。

 昭和45年(1970年)の11月25日、市ヶ谷で自決した三島由紀夫と彼の行動を、私は三十余年を経てなお、鮮明に憶えている。

 小説・戯曲・評論に跨(またが)って縦横に活躍した人だったから、彼のいわゆる「最後の演出」は、さまざまに批評された。なかには三島さんの45年の生涯を、幕切れの自決へ向かって高まりゆく「計算し尽くしたドラマ」だという評もあった。文学的には面白いかもしれないが、本当にそうだろうか。

 三島さんはかなり前から、自衛隊に奮起を促すため自決する覚悟をしていた。注意深く準備し、同志を選び、日を決め、総監と面会の約束を取り、前の日にはパレスホテルの一室で、人質を縛る予行演習までした。鋭い頭脳をもって組み立てた、なるほど緻密な筋書だった。

 だが私が記憶する三島さんの最期は、ドラマに付き物の興奮からは程遠い、むしろ静けさに満ちたものである。いや実はあらゆるドラマは、興奮の極より静かに終わる方が理想ではないだろうか。『人形の家』は、ノラがバタンとドアを閉めて家を出ていく音で終わる。劇場を出た観客は、その音が胸の底に静かに沈むのを感じながら歩み去る。劇とは、そんなものではないか。



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