戦後を代表する作家として活躍した三島由紀夫(1925〜1970)は、自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを促す演説をした後に割腹自殺した。三島と親交のあったジャーナリストの徳岡孝夫氏が綴る。
◆ ◆ ◆
あの「三島事件」で、もし自衛隊か警察が銃を使っていたら…
殺意をもって法の執行官を襲う者は、射殺されても当たり前。それが世界の常識である。ひとり日本は、身の危険を感じた警察官が発砲して犯人に当たると、マスコミは警察を咎(とが)めてきた。現実に合わなくなって、最近ようやく銃の使用規制を緩め、マスコミも前ほど警官を責めなくなった。
あの「三島事件」で、もし自衛隊か警察が銃を使っていたら、事件は実際とは全く異なる終わり方をしていただろう。現場は陸上自衛隊駐屯地内、飛び道具には事欠かない。人質も犯人5人も全員が至近距離にいて、丸見えである。威嚇射撃も急所を外して撃つことも、造作なくできた。また、もし銃弾が誤って人質になった益田(ました)兼利総監に当たっても……バルコニーからの演説や野次、まして切腹は、あったかどうか分らない。
昭和45年(1970年)の11月25日、市ヶ谷で自決した三島由紀夫と彼の行動を、私は三十余年を経てなお、鮮明に憶えている。
小説・戯曲・評論に跨(またが)って縦横に活躍した人だったから、彼のいわゆる「最後の演出」は、さまざまに批評された。なかには三島さんの45年の生涯を、幕切れの自決へ向かって高まりゆく「計算し尽くしたドラマ」だという評もあった。文学的には面白いかもしれないが、本当にそうだろうか。
三島さんはかなり前から、自衛隊に奮起を促すため自決する覚悟をしていた。注意深く準備し、同志を選び、日を決め、総監と面会の約束を取り、前の日にはパレスホテルの一室で、人質を縛る予行演習までした。鋭い頭脳をもって組み立てた、なるほど緻密な筋書だった。
だが私が記憶する三島さんの最期は、ドラマに付き物の興奮からは程遠い、むしろ静けさに満ちたものである。いや実はあらゆるドラマは、興奮の極より静かに終わる方が理想ではないだろうか。『人形の家』は、ノラがバタンとドアを閉めて家を出ていく音で終わる。劇場を出た観客は、その音が胸の底に静かに沈むのを感じながら歩み去る。劇とは、そんなものではないか。