(CNN) 米海軍の空母ミッドウェーに乗り組む兵士たちが、何百万ドル分もの装備品を南シナ海へ投げ捨てていく。艦長のラリー・チェンバース大佐は、その作業を見ないことにした。
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飛行甲板からヘリコプターを投棄するよう指示したのはチェンバース氏だ。この命令を下したことで軍人としてのキャリアが台無しになる可能性を承知しつつ、それでも構わないと覚悟を決めていた。
上空では、南ベトナム空軍のパイロット、ブアン・リー少佐が妻と5人の子どもたちを連れて乗り込んだ小型飛行機が旋回している。着艦するスペースが必要だった。
1975年4月29日。ミッドウェーの西方では、米国が10年あまり支援してきた南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)に、共産勢力の北ベトナム軍が迫っていた。
ブアン氏は家族が共産勢力に拘束されてひどい目に遭うことを恐れ、サイゴン近郊の仮設滑走路で見つけた単発の軍用軽飛行機、セスナO-1に家族を詰め込んで飛び立つという賭けに出た。
そして幸運なことに、もう1人の「愚か者」に出会ったのだと、チェンバース氏は言う。
「あいつは、だれかほかの愚か者がヘリだらけの甲板を空けて、着艦するスペースを作ってくれると思っていた。そこまで勇敢で、そこまで愚かな奴だというなら、と私も考えた」――チェンバース氏はCNNにそう語った。あんな突拍子もない話は今でも信じられないというように、小さく笑って頭をかきながら。
この日、甲板はヘリでいっぱいだった。ミッドウェーは、サイゴンからヘリで在留米国人らを脱出させる「フリークエント・ウインド作戦」に参加していたからだ。
同作戦では翌日にかけて、南ベトナム市民と米国人約7000人が米海軍の艦船に避難し、うち2000人がミッドウェーにたどり着いた。その中でも、2人乗りのセスナに乗ったこの7人家族の脱出劇は際立っていた。
無線が使えなかったため、ブアン氏がミッドウェーの艦長に助けを求めるには、上空から甲板に手書きのメモを落とすしかなかった。
何度か失敗を繰り返した末、ついに1枚が目標に届いた。
メモには「ここにあるヘリを反対側へ移動してもらえないか」「私が飛べるのはあと1時間。移動の時間は十分にある。どうか助けてください。ブアン少佐、妻と5人の子どもたち」と書かれていた。
チェンバース氏は選択を迫られた。ブアン氏の要請通りに甲板を空けるか。あるいは海に不時着させるか。セスナ機は降着装置が固定式で、着水と同時に転覆することは分かっていた。機体が無事でも、転覆すれば一家はおぼれてしまうだろう。
そんな事態に陥らせるわけにはいかなかった、とチェンバース氏は言う。だが上官たちはセスナの着艦に反対だった。
甲板の運用を監督する責任者にも反対された。甲板を空けると告げた時に責任者から投げられた言葉は活字にしたくないと、同氏は言う。
チェンバース氏は空母航空団の2000人全員を甲板に呼び出し、セスナ機の受け入れ準備を命じた。さらに、着艦に向けて空母を向かい風の方向に転換させた。
乗組員たちは3000万ドル(現在のレートで約43億円)相当ともいわれるヘリを、甲板から海に投げ込んだ。米国や南ベトナム、中には米中央情報局(CIA)のヘリもあった。
何機が投棄されたか、チェンバース氏は今も把握していない。「混乱のまっただ中で、だれも数えてはいなかった」という。
しかも同氏自身は、現場を見ていなかった。
米艦隊の上官たちの命令に反した判断を下したことで処罰を受け、海軍から除籍される可能性もあるのは承知していた。
「軍法会議の対象になることは分かっていた。その時に、たとえうそ発見器にかけられたとしても、投棄した数は知らないと供述できるようにしておきたかった」と、同氏は説明する。だから、自分の命令が実行される現場を見ないことにしたのだ。
「あれが私なりの防衛策だった。今思うとばかげた考えだったが、そのおかげで少なくとも思い切って進む度胸がついた」と語る。
甲板に十分なスペースができて、ブアン氏はミッドウェーに着艦することができた。セスナ機が強風で甲板から飛ばされないように乗組員たちが素手でつかまえ、周囲から歓声が上がった。
「あいつはたぶん、私が一生に出会った中で一番勇敢な大ばか野郎だ」――チェンバース氏はブアン氏について、そう話す。家族を救うために、空母に着艦するという未経験の荒業を、着艦用にはできていない機体で試みたのだ。
チェンバース氏は「私はあいつのために滑走路を空けただけ。それが精いっぱいだ」と話し、軍の装備品より命が優先だと強調。「人命を救うために最善を尽くすまでだ」と語った。