絶望の中に宿った希望…知る人ぞ知る作家が教える「静かな覚悟と向き合い方」


● 病の宣告後に映画館で喜劇を観るも1人笑えず

北條民雄(ほうじょう・たみお 1914〜1937年) ソウル生まれ。本名・七條晃司。代表作は『いのちの初夜』。高等小学校を卒業後、上京し、法政中学夜間部で勉強するなどプロレタリア文学を志すが、19歳でハンセン病を発症。東京・東村山のハンセン病療養所「全生病院」(現・国立療養所多磨全生園)への入院を余儀なくされる。病院から川端康成に作品を見てほしいと手紙を書き、作品を執筆。自身の経験をもとに書いた代表作『いのちの初夜』は、小林秀雄が「文学そのもの」と評するなど文壇から高い評価を得て、第2回文學界賞を受賞、芥川賞候補にもなった。作品集『いのちの初夜』がベストセラーになったものの、腸結核のため、その短い一生を23歳で終えた。

● ■「眉毛が抜けた」――確信へと至る瞬間

 足に麻痺を感じ始め、鏡に映る自分の顔の血色が妙にいい―急にどうしたのだろうと不思議に思っていたところ、偶然、ある雑誌でらい病(ハンセン病)の記事を見かけます。

 どうも、自分の身に起こった症状と似ていると思っていると、眉毛が抜け落ち、これでハンセン病であることが決定的になったと、のちに随筆に書いてます。

● ■恐怖と絶望が交差した一瞬の描写

 「妙に眉毛がかゆく、私はぽりぽりと掻きながら自分の部屋へ這入った。そして何気なく指先を眺めると抜けた毛が五六本かたまってくっついているのである。おかしいと思ってまた掻いてみると、また四五本くっついているのであった。おや、と思い、眉毛をつまんで引っぱって見ると、十本余りが一度に抜けて来る。
 胸がどきりとして、急いで鏡を出して眺めて見た時には、既に幾分薄くなっているのだった。私は鏡を投げすてて五六分の間というもの体をこわばらしたままじっと立竦んでいた。LEPRA!という文字がさっと頭にひらめいた」
『北條民雄 小説随筆書簡集』(講談社文芸文庫)

● ■診断、そして笑えなかった「喜劇王」

 北條は自宅から20キロほど離れた病院に行き、「らい病」と診断されました。

 その宣告にショックを受け、家に帰る気にならず映画館に行って、当時人気だったバスター・キートン主演の『喜劇王』を観て、気を紛らわせようとしました。

● ■笑い声のなかで、ひとり感じた孤独

 笑いが起こる館内にあって北條はショックを拭いきれず、ほかの観客と同じように笑えないことに孤独感を覚えたと振り返っています。

 ※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

富岡幸一郎



Source link