路上で見知らぬ女性を刺し殺したのは、平成の日本を震撼させた酒鬼薔薇聖斗(当時)と同じ中学3年の少年だった。刺す相手は「誰でもよかった」と語る少年は、果たして大人たちが理解できない怪物なのだろうか。先日、『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか:不確かな境界』(新潮新書)を上梓した毎日新聞の川名壮志記者が、時代と社会を映し出す「鏡」として少年事件をとらえなおす。
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「犯人」は「酒鬼薔薇聖斗」と同じ中学3年生
5月11日の夕方。
千葉市の路上で、高齢の女性が刃物で殺されているのが見つかった。
その翌日。殺人容疑で逮捕されたのは、中学3年の少年。被害者との面識はなかった。
わずか15歳の通り魔殺人――。
新聞各紙もテレビも、このニュースを一斉に報じた。
「誰でもよかった」(朝日新聞)
「誰でもいい」説明(読売新聞)
「誰でもいいから殺そうと」(産経新聞)
「誰でもいいから」供述(東京新聞)
「誰でもよかった」(毎日新聞)
新聞各紙の見出しは、ご覧の通り。
「誰でも〜」のオンパレードだ。だが、一読して私は思った。
本当にそうか?
何かニュアンスが違うのではないか。
この少年は、中学3年だった。同じ中学3年といえば、想起される事件がある。
「さあ、ゲームの始まりです」
「殺しが愉快でたまらない」
強烈な犯行声明文を書いた酒鬼薔薇聖斗による神戸連続児童殺傷事件。彼もまた、事件当時は中学3年だったのだ。
千葉市の少年も、見出しだけでみれば、誰彼かまわず殺したいという無軌道な動機で、見ず知らずの女性を刺殺したように受け取れる。それこそ、「恐るべき中学3年(アンファンテリブル)」の凶行だ。
ところが、逮捕を報じる各紙を読んでも、テレビのニュースを見ても、千葉市の少年と酒鬼薔薇とが重ならない。四半世紀以上の時が流れているとはいえ、事件をおこした二人の少年の質は違う気がする。
警察発表と報道のニュアンス
千葉の事件をめぐる各紙の記事を詳しく読むと、違和感の正体がつかめてきた。
たとえば、朝日新聞。
〈捜査関係者によると、少年は調べに対し「誰でもよかった」という趣旨(・・)の説明をしているという〉(傍点筆者)
「誰でもよかった」とは、あくまでも警察側の説明であり、言い回しだ。少年の供述は、少年本人の言葉ではない。あくまでも趣旨なのだ。
(記事本文では、各紙とも「趣旨」の文言を使っている)
読売新聞が、やや詳しく書いている。
〈少年は調べに「複雑な家庭環境から逃げたかった(後略)」〉と話しているというのだ。
ご存じのように、捜査機関である警察が重視するのは、容疑を認める供述であり、有罪を立証するための証拠だ。彼らは、捜査のプロ。未成熟な少年の心の内を探るプロではない。
新聞記者であれば、警察と少年とのこんなやり取りが目に浮かぶ。
「このおばあさんのことを知っているのか」
「特定の誰かを狙って刺したのか」
といった警察の当然の調べに対して、
「知らない」
「別に誰かを狙ったわけじゃない」
と少年が答える。あるいは、首を振ったり、うなずいたりする。それが丸められて「誰でもよかった」という趣旨に転じた可能性が十分にある。
だから、この事件では、こんな記事の書き方もあったはずなのだ。
〈少年は「複雑な家庭環境から逃げたかった。特定の誰かを殺そうと思ったわけではない」という趣旨の供述をしているという〉
こうなると、だいぶニュアンスが変わらないだろうか。
(実際、事件の続報では「家族へのストレスが限界だった」「自分より弱い人狙った」などと少年が話していることが報じられた)
じつは、こうした少年事件のニュースの報じ方、記事の書きぶり、というのは記者の取材不足うんぬん以上に、時代の空気が影響している。
顔も名前も明らかにされない匿名の少年に投影される人物像は、時代のトレンドが反映されがちなのだ。