「危ないからお逃げなさい」河野一郎宅を焼き討ち、経団連を襲撃した末に朝日新聞社内で“拳銃自殺”…いくつものテロ事件を起こした「大物右翼」が見せていた“優しい顔”


【画像】昭和にいくつものテロを起こし、朝日新聞社内で自殺した“大物右翼”の顔を見る

 平和の国、日本。しかし、今からそう遠くない過去には世間を揺るがすテロ事件も数多く起きていた。1993年、朝日新聞の社内で起きた“大物右翼”による拳銃自殺もその一つだ。『 日本を震撼させた昭和のテロ事件 』(宝島SUGOI文庫)より一部抜粋し、お届けする。(全3回の3回目/ 1回目を読む / 2回目を読む )

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 1993(平成5)年10月20日、中央区築地にある朝日新聞東京本社に、新右翼の論客・野村秋介が訪れた。正午少し前のことである。野村は息子を含む4人の同行者を連れていた。

 野村は15階の役員応接室で、中江利忠社長をはじめとする朝日新聞社重役と話し合いを持った。かねてから手厳しく朝日を批判していた野村だったが、穏やかな態度であった。

 ひとしきり話し合いを終えた後、野村は部屋の隅に行き、「節義を通すということがどういうことか、見ていてください」と言い、皇居に向かい「すめらみこと、いやさか(天皇弥栄)」と3回唱え、両手に持った2挺の拳銃で脇腹を撃ち、自決したのである。

「政治家宅を焼き討ち」「経団連を襲撃」…赤報隊事件の黒幕説も

 だがこれがきっかけとなり、野村はこれまでの朝日の報道姿勢に対する批判を改めて主張した。自決当日に朝日を訪ねたのは、重役による陳謝を受けに行ったのである。

 野村はそれまでに2つの有名なテロ事件を起こしている。1963(昭和38)年の「河野一郎邸焼き打ち事件」と1977(昭和52)年の「経団連襲撃事件」だ。自民党の領袖・河野一郎邸を全焼させた前者では12年服役し、経団連に立てこもった後者では6年服役した。いずれも戦後体制に対するアンチテーゼとしての事件である。

 権力闘争に汲々たる政治家と、拝金主義を生み出した経済界をターゲットとした。そしてもうひとつ、野村の批判の矛先が向けられたものがあった。それはマスコミであり、とりわけ朝日新聞である。

 朝日新聞は、戦前戦中は国民を戦争に駆り立てておきながら、戦後は掌を返したかのような報道姿勢に変わった。第4の権力と化したマスコミのあり方への強い批判は、野村を赤報隊事件の黒幕ではないかと疑わしめることにもなった。



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