来る参院議員選挙を前に、消費税やら年金法案やら、有権者を横目に見ながらの与野党論戦が繰り広げられている。目下の世論の関心も、もっぱらその“是非”に寄せられているが、しかしそこには、何か重大な見落としがあるのではないか――。視野狭窄な議論に終始する政治への危惧と、昨今の社会に漂う「閉塞感」の正体について、思想史家の先崎彰容氏が説く。
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現在の日本が置かれている状況は、腐敗による政治不信が高まり、世界恐慌に翻弄された100年ほど前の「戦間期」の時代を彷彿とさせます。政治とカネの問題で自民党の信頼がゆらぎ、トランプ米大統領の関税政策に揺れる今日は、社会不安と閉塞感が漂っています。今後、選挙結果次第で、さらなる多党化が進んでしまうと、「決められない政治」に陥っていく可能性が高い。
そんな時代の象徴が、国民民主党をはじめとした新興勢力の躍進といえるでしょう。一見すると玉木雄一郎代表の“手取り政策”が奏功したものとも思えますが、この現象の実像をとらえるには、社会全体に視点を広げる必要があります。
たとえば、この間、選挙ポスターをもてあそぶ「N国党」や、政策をあえて掲げない「石丸新党」が人気を得ていました。彼らの支持層は、社会を決定的に変革できない今、選挙それ自体を嘲笑し、馬鹿にしたい気分を潜在的にもっている。いわば従来の民主主義を揶揄するような政治活動が、拍手喝采を浴びるようになっているのです。
学校の先生を引きずり下ろすことができない教室で許された反抗は、おしゃべりをやめないとか、後ろを向いて無視するとかですよね。今の日本社会で起こっているのは、同様の反抗的な気分です。テレビやSNSで人気を博す自称知識人やコメンテーター、さらに芸人も、どこか斜めから社会を見る、人に嫌味を言う、引きずり下ろす発言が増えているように思えます。
国民民主党の“化けの皮”
否定的な空気感に支配された社会では、ワンイシューが刺さる。なぜなら国論を二分するような大論争が起きない以上、「小さな論点」で社会に一刺ししたいからです。個別論点を用いた小さなゲリラ活動は、歴史的には、冷戦崩壊後の左派勢力がとってきた基本戦略です。共産主義革命や巨大な政治体制の転換が不可能だとわかった後、左派は少数者や弱者に焦点をあてた政策による社会改良をめざした。それが行き過ぎた結果、アメリカでは反動でトランプ復活が起きました。
日本の場合、アメリカほど過激な左派活動もない分、揺り戻しもトランプ登場ほどにはなりません。しかし逆から言えば、社会停滞、社会を劇的に変える雰囲気がないので、「小さな論点」で留飲を下げ、嘲笑と喝采がおこる。さらにSNSの発達もあって、もはや、自民党と立憲民主党に代表される「保守vs革新」という二項対立の時代は終わり、若者は「新・旧」という遠近法によって政治をとらえるようになっている。ここにうまくはまったのが、「手取りをあげる」の国民民主党だったわけです。
社会の閉塞感を一気に変えられない。でも不満は人それぞれに渦巻いている。だから個別具体的な論点をかかげる少数政党が躍進し、“多党政治化”が進むでしょう。岸田文雄元首相から「大連立」「玉木首相」などに触れる発言があったのも、そんな背景事情への危機感があってのことでしょう。
しかし国民民主党をふくめ、急拡大する少数政党では、人材不足が早晩、露呈します。すでに国民民主党では、参院選の比例代表候補をめぐって批判を集めるなど、人材不足の“化けの皮”が剥がれつつある。これがなぜ問題なのかというと、仮に連立入りを果たし、総理のポストを得た場合、海外の強国に揺さぶられるからです。どこまでできるかお手並み拝見と、必ず、外交問題をしかけてくる。