ダイバダッタと僕の共生哲学
がんになったのは運命だったのか、それとも単なる偶然だったのか──。
これまでの放浪人生で、僕は幾度も修羅場をくぐってきた。しかし、医者の口から「ステージ4です」と告げられたときには、さすがに膝が笑った。
けれど、僕は‘’ガンファイター”である。銃を捨てるわけにはいかない。がんとの撃ち合いは、どうやら一発勝負の早撃ち決闘ではなく、長期戦という名の「共生」だった。
10回にわたって続けてきたこの闘病記も、ついに最終回を迎える。読者諸兄にとっては、老がんマンの独り語りだったかもしれない。だが、がんという存在と向き合いながら日々生きるうちに、僕の中で一つの問いが浮かび上がった。
「がんとは何か。そして、がんから何を学ぶことができるのか」
この問いに対する明確な答えはない。しかし、思索と沈黙の中で見えてきたのは、仏教的な「共生」の思想であった。
がんとの対話——それは僕の中にいるもう一人の自分
がんとの出会いは、当然ながら「戦い」として始まった。
ゼロックス療法、バハシズマブ、まるでSF映画に登場しそうな治療法を体内に取り込み、僕は生き残るために銃を抜いた。
だが、治療の途中でふと気づく瞬間があった。
こいつは本当に「敵」なのか? と。
このがんという存在、まるで自分の奥深くに潜んでいた「何か」が、形を持って現れたような気がしたのだ。
西洋哲学では、善と悪、光と闇、カインとアベルというように、二元論で物事を捉える傾向がある。だが、仏教にはそうした単純な切り分けを許さない深い洞察がある。たとえば、釈尊(ブッダ)とその従兄弟であり敵対者であった提婆達多(ダイバダッタ)の関係が象徴的である。
提婆達多は一時、釈尊の命すら狙ったが、最終的にはブッダの法に帰依し、来世で仏になると予言された。つまり、最悪の敵もまた、自分の中の仏性を映し出す鏡だったというわけである。
僕のがんもまた、まさに「僕の中にいるダイバダッタ」だったのかもしれない。