アルツハイマー病の治療薬開発は、世界中の研究者が取り組む喫緊の課題です。長年、認知症研究の第一人者として活躍し、エーザイ退職後に株式会社グリーン・テックを設立した薬学者・脳科学者の杉本八郎氏は、現在臨床研究の前段階まで開発が進んでいる注目の新薬候補「GT863」について語っています。この化合物が持つ画期的な作用機序と、その開発の背景にあるユニークなエピソードを探ります。
開発のヒントはインドの食習慣とデータ
グリーン・テック社がGT863の開発研究を開始したきっかけの一つは、興味深い疫学データでした。カレーを日常的に食べる習慣のあるインドでは、アルツハイマー病の発症率がアメリカと比較して約4分の1と著しく低いという報告に注目したのです。この食習慣と発症率の関連性の鍵を握る可能性のある物質として、ターメリックに含まれるポリフェノールであるクルクミンに着目しました。
高分子化合物であるクルクミンは、通常、脳への薬剤移行を妨げる血液脳関門(BBB)を通過しにくいと考えられています。しかし、クルクミンを混ぜた餌で飼育したマウスの脳内(海馬)でアミロイドβの凝集が抑制され、認知機能の改善が見られたという2005年の実験結果は、インド人の発症率の低さを裏付ける傍証となりました。この事実は、クルクミン、あるいはその代謝物が何らかの形で脳内で作用している可能性を示唆しています。
血液脳関門を突破する低分子化合物「GT863」の誕生
クルクミンが脳内で示す作用を手がかりに、グリーン・テック社は、クルクミンと同様の作用を持ちながら、より確実に血液脳関門を通過できる低分子化合物の創薬研究に着手しました。数百回に及ぶ試行錯誤の末、ついにその合成に成功したのが「GT863」です。
GT863を用いてマウスで行われた実験では、クルクミンと同様にアルツハイマー病の原因物質とされるアミロイドβの凝集を抑制する作用が確認されました。さらに重要な点は、アルツハイマー病のもう一つの主要な原因物質と考えられているタウタンパク質の凝集に対しても抑制作用を示すことが明らかになったことです。これらのデュアルアクション(二重作用)により、マウスの学習能力の維持や低下抑制といった認知機能の改善が観察されました(図14参照 – 原典に図あり)。
アルツハイマー病治療薬研究のイメージ画像
アミロイドβとタウ、二つの原因物質に作用する画期性
アルツハイマー病は、アミロイドβとタウという二種類のタンパク質が脳内で異常に凝集し、神経細胞を損傷することで進行すると考えられています。既存の治療薬や開発中の多くの薬剤がどちらか一方、あるいは別のメカニズムに作用するのに対し、GT863はアミロイドβとタウの両方の凝集を抑制する効果を発揮するという点で、非常に画期的なアプローチと言えます。このようなデュアルアクションを持つ化合物は、現在のところ他に報告例がありません。
「GT863」名前に込められた開発者の想い
この注目の新薬候補「GT863」の名前には、開発者である杉本八郎氏の思いが込められています。まず、「GT」は杉本氏が立ち上げた会社名「グリーン・テック(Green Tech)」の頭文字に由来します。そして「863」という数字ですが、実は化合物の合成に成功するまでに800回以上の失敗を重ね、GT863は859番目にできた化合物だったそうです。「859」では覚えにくいと考えた杉本氏は、ご自身の名前である「八郎(ハチ・ロウ)」にちなんで、「ハチ・ロウ・サン=863」と命名したとのこと。「グリーン・テックのハチ・ロウ・サン」という覚えやすい名前には、開発の苦労と親しみが込められています。
アルツハイマー病以外にも、特定のタンパク質の異常な凝集が原因となって発症する可能性が指摘されている神経変性疾患は複数存在しており、GT863のような凝集抑制作用を持つ化合物の研究は、様々な疾患への応用が期待されます。
まとめ
杉本八郎氏率いるグリーン・テック社が開発を進めるアルツハイマー病治療薬候補「GT863」は、インドでの疫学データから着想を得て、クルクミンの作用を参考に創製されました。血液脳関門を通過可能な低分子化合物として設計されたGT863は、アルツハイマー病の二大原因物質であるアミロイドβとタウの両方の凝集を抑制するという、既存薬にはない画期的な作用を持つことがマウス実験で確認されています。そのユニークな名前には開発者の個人的なエピソードが込められており、今後の臨床研究の進展と、アルツハイマー病治療における新たな希望となる可能性に注目が集まっています。