淡路島と和歌山の「矢印エリア」に、なぜ橋を作らないのか?


11kmの海峡に挑む構想

【画像】「えぇぇぇぇ!」これが紀淡海峡の「矢印エリア」です! 画像で見る(計6枚)

 X(旧ツイッター)のまとめメディア「トゥギャッター」には、「和歌山と淡路を繋ぐ紀淡海峡大橋が欲しいと思っている人、和歌山県の人口よりも居るのでは?「計画はあるけど難しそう」」として、多くの意見が集まった。

 紀淡海峡への架橋は常連の話題だ。淡路島と和歌山県加太を隔てる海峡の幅は約11kmある。鳴門大橋や明石海峡大橋があることから、ここにも橋があれば便利になると想像しやすい。そのため、

「明石大橋の渋滞が激しいので分散が必要だ」
「徳島県民や一部の兵庫県民の関空アクセスが向上する」

といったような好意的な意見が相次いだ。多くの人が、橋ができれば利便性が高まると考えている。

 実際、紀淡海峡への架橋は1960年代から構想されている。現在も和歌山市役所内に事務局を置く紀淡連絡道路実現期成同盟会など、推進組織が存在する。

 しかし、半世紀以上経っても架橋が実現しないのはなぜか。

大阪湾環状交通網の展望

 この報告書の「全国的な輸送開発による日本の物的統合」という項目では、愛知県の渥美半島から紀伊半島を横断し、紀淡海峡で橋を架けて四国と結び、さらに豊予海峡で九州と接続する道路構想が示されている。これにより交通の緩和を図り、大阪湾と瀬戸内海をめぐる環状交通網の整備が進むとされた。

 その後、1979年に当時の和歌山県知事・仮谷志良(しろう)が紀淡海峡トンネルの構想を提唱した。大鳴門橋とあわせて大阪湾を環状に囲む交通網の整備を訴えた。以降、運輸省は道路の可能性、国鉄は鉄道の可能性を模索し、幾度かの調査が実施されている。

 1980年代に入ると、和歌山県や徳島県などで実現の機運が高まり、官民による会議が頻繁に開かれるようになった。

 特に注目を集めたのは1988年だ。この年、青函トンネルと瀬戸大橋が開通した。これらの技術を次にどう生かすかという機運が高まり、紀淡海峡と豊予海峡の架橋構想が本命視された。



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