漫画家「アンパンマン」の作者、故やなせたかし氏(1919〜2013年)の「原点」とされるライオンの石像がある。その像は、氏が少年時代を過ごした高知県南国市後免町の柳瀬医院跡地に長年置かれていた。地元小学生によって“発見”されるまで、その存在はほとんど知られていなかったという。本記事では、このライオン像とやなせ氏の幼少期から青年期にかけての歩みを追う。
やなせ氏は幼少期、父を亡くし母が再婚した後、後免町で「柳瀬医院」を開いていた父の兄である伯父夫妻に引き取られ育った。この医院に、ある時、居場所を失ったライオンの石像が運び込まれたという。やがて医院は廃業して更地となったが、この石像はそこにぽつんと残された。長年、その存在を知る人は少なく、忘れられたように空き地に佇んでいた。
やなせ氏が進学したのは、高知市中心部にあった旧制の県立高知城東中学校(現在の県立高知追手前高校)だ。この学校は、戦前の総理大臣「ライオン宰相」と呼ばれた濱口雄幸など、多くの著名な卒業生を輩出している。1931(昭和6)年、小学2年生で伯父に引き取られたやなせ氏は高知城東中へ入学。2歳下の弟・千尋氏も後を追うように入学した。二人は後免駅から高知駅まで同じ列車で通学していたが、やなせ氏本人は著書『やなせたかし おとうとものがたり』の中で、「兄弟いっしょが恥ずかしくて ふたりはいつも別々だった」と当時の心境を記している。
卒業後、1937(昭和12)年にやなせ氏は旧制の官立東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)へ進むため、約10年間過ごした後免町を18歳で離れた。上京後も伯父の寛氏はやなせ氏への経済的支援を惜しまなかった。『高知新聞』に寄稿した連載には、「ぼくは生活とか学費の苦労はいっさいせず、上京してからもきちんと毎月送金してもらって、友人の中では割合に恵まれた学生生活」だったと振り返っている。デザインの学校に進むという伯父夫妻の希望に背く選択をしたにも関わらず、支援は続いた。しかし、同校を卒業する間際、やなせ氏を育ててくれた伯父が亡くなった。
やなせたかし氏が人生で2番目に出会ったとされる日本橋三越本店のライオン像
この頃から、やなせ氏の人生は再び波乱に満ちていく。一度は東京田辺製薬(宣伝部)に入社するものの、22歳になった1941年に徴兵された。福岡県小倉の部隊に入り、1945(昭和20)年8月に中国で敗戦を迎える。この時、やなせ氏は26歳になっていた。
高知県南国市後免町での幼少期から、高知市内での学生生活、東京での学び、そして戦争体験まで。やなせたかし氏の初期の人生は、原点とされるライオン像と共に、その後の長く多様な創作活動へと繋がる重要な礎となったと言えるだろう。