安全保障研究者の千々和泰明氏によれば、第二次世界大戦がなぜ起きたのかを理解するには、第一次世界大戦後の国際情勢と、そこから得られた「怖がっている相手を脅してはいけない」という教訓が鍵となります。しかし、この教訓の守りすぎが、皮肉にも次の悲劇を招いたといいます。本稿では、その原因と転換点となったミュンヘン会談を中心に掘り下げます。
戦間期のドイツとヒトラーの台頭
第一次世界大戦の敗北により、ドイツはヴェルサイユ講和条約で厳しい条件を課されました。さらに1929年の世界恐慌が追い打ちをかけ、経済的な混乱が社会不安を増大させます。こうした状況下で、講和条約体制を否定する過激な指導者アドルフ・ヒトラーが現れ、ナチス党を率いて政権を獲得しました。ナチス・ドイツは、隣国であるオーストリアやチェコスロバキアへの侵略を開始し、ヨーロッパの緊張を高めていきました。
歴史の転換点:ミュンヘン会談
1938年、ドイツ南部ミュンヘンで開かれた外交交渉が、第一次世界大戦後の歴史における重要な転換点となりました。この会談で、イギリスやフランスなどの主要国は、ヒトラーのチェコスロバキア併合を追認するという「宥和政策」(appeasement)を選択しました。これは、第一次世界大戦の悲劇を繰り返さないために、ドイツを過度に刺激すべきではないという教訓に基づいたものでしたが、結果としてヒトラーのさらなる侵略を許すことになります。
ミュンヘン会談の様子、中央にヒトラー
戦争勃発と枢軸国の拡大
ミュンヘン会談での成功に emboldened されたヒトラーは、1939年9月1日にポーランドへ侵攻します。これを放置すればヨーロッパ全体がナチス・ドイツの支配下に入ると懸念したイギリスとフランスは、同月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発しました。ドイツ軍は、事前に独ソ不可侵条約を結んでいたソ連軍と共にポーランドを短期間で制圧。翌1940年にはフランスを屈服させ、イギリス本土への航空攻撃も開始しました。この時期にはイタリアもドイツ側に参戦し、枢軸国の勢力は拡大しました。
戦局の転換点
イギリスがドイツの攻撃に耐え抜くと、いら立ちを募らせたヒトラーは1941年6月、ソ連侵攻を開始しました。これは、約130年前にロシア遠征に失敗したナポレオンと同じ過ちでした。ソ連侵攻はヒトラーの運命を暗転させる第一歩となります。一方、1941年12月7日には、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃しました。これにより、前年に日独伊三国同盟を結んでいたドイツとイタリアもアメリカに宣戦し、アメリカが連合国側に加わることになります。ヨーロッパ戦線における決定的な転換点は、1943年2月のスターリングラード攻防戦でした。ここでドイツ軍はソ連軍に大敗し、ソ連軍による東部からの反攻が始まります。1943年9月にはイタリアが連合国に降伏しました。
1943年、スターリングラードで攻撃するソ連兵
ヨーロッパ戦線の終結
1944年に入ると、アメリカ・イギリス連合軍がフランス北西部のノルマンディーに上陸成功。ドイツは東西から連合軍に挟撃される形となりました。1945年4月、ソ連軍がドイツ首都ベルリンに迫る中、ヒトラーは自殺。ドイツは5月に連合国に無条件降伏し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は終結しました。この戦争で、ヨーロッパでは連合国側で3000万人以上、枢軸国側で800万人以上の死者が出たとされています。ドイツは領土を大幅に削られ、かつてのプロイセン領の大部分はポーランドやロシア領となりました。
なぜ二度目の大戦は避けられなかったのか
わずか30年ほど前に第一次世界大戦を経験したばかりであったにもかかわらず、なぜこれほど多くの犠牲を伴う二度目の世界大戦を避けることができなかったのでしょうか。その問いを深掘りする上で、ミュンヘンでの出来事、すなわち「怖がっている相手を刺激してはならない」という第一次世界大戦の教訓を、ヒトラーのような侵略者に対して誤って適用してしまったことの重みが浮き彫りになります。宥和政策は、結果的に侵略者を embolden し、より大きな悲劇を招くことになったのです。
第二次世界大戦の勃発は、単一の原因によるものではありませんが、ミュンヘン会談における宥和政策がヒトラーの野心を増長させ、戦争への道を開いた重要な要因の一つであったと言えます。第一次世界大戦からの教訓は貴重でしたが、それをどのように、そして誰に対して適用するかという判断の誤りが、悲劇的な結末を招くこととなりました。安全保障の観点からも、この歴史の教訓は現代にも通じる示唆を与えています。
参考文献: 千々和泰明『世界の力関係がわかる本』(ちくまプリマー新書)