〈秋篠宮ご夫妻結婚35年…ご新婚の「秋篠宮さまの乱れた髪を紀子さまが直した写真」を宮内庁が公表取り消し要請→“物議”を呼んだワケ〉 から続く
【写真】雅子さま“奇跡のティアラ姿” スカラップカット風の若々しいドレス
6月29日、秋篠宮ご夫妻は35回目の結婚記念日を迎えられた。当時、兄に先立つ形で紀子さまと結婚された秋篠宮さま。皇太子さま(当時)の結婚をめぐっては、どのような形で国民やメディアからの関心が高まっていったのか。名古屋大学大学院人文学研究科准教授の河西秀哉氏による『 皇室とメディア 』(新潮選書)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/ 前編 より続く)
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結婚相手を再び「旧貴族」に戻そうとする動き
秋篠宮より前に結婚が話題となっていたのは、長男の徳仁皇太子であった。彼の結婚問題は昭和の時期より報道が始まっていた。その最初期の記事が、徳仁親王が17歳のときの1977年に発表された、ジャーナリストの青山太郎による「浩宮の花嫁競争がもう始まった」である。青山はこのなかで、青年になった徳仁親王の人気が高まっており、「将来の妃殿下選びの最初の段階」を迎えていると指摘する。とはいえ、具体的に何か宮内庁内の動きを記しているというよりは、徳仁親王がそうした年齢に達したことから、準備が開始されるであろうとする文章であった。その意味では、父親の明仁皇太子のときの結婚報道の端緒とほとんど変わらないものであったと言える。この青山の文章の特徴はそこから話を発展させ、学習院の卒業生会である常磐(ときわ)会と聖心のそれにあたる聖心会との対立(彼はそれを「旧貴族と新貴族の戦い」と表現する)、さらに常磐会員の巻き返しを描いていることである。明仁皇太子と美智子妃の結婚によって、それまでの「権威」としての天皇制は変化を遂げ、新しい象徴天皇制へと生まれ変わったはずであった。しかし、旧来の勢力である学習院からは揺り戻しのような動きがあり、それが徳仁親王の結婚相手を再び「旧貴族」に戻そうとする動きだと青山は論じる。一方で彼は、「時代は本当に大きく変った」とも述べ、こうした狙いはうまくいかないであろうことを匂わせた。