今後30年以内に80%程度の確率で起きるとされる南海トラフ巨大地震では、最大で29万8000人の死者数が想定されています。巨大災害への備えとして、私たちは何をすべきでしょうか。東日本大震災で被災された方々の体験談から、生死を分けた行動の教訓を探ります。大手放送局員として現地取材を重ねた秋元美樹氏の報告です。
あの日の激しい揺れ、そして避難へ
いまも津波に飲まれていく母の姿を夢に見るという高橋信次さん(70代・仮名)は、自責の念に駆られています。2011年3月11日午後2時46分、岩手県沿岸部の自宅近くで畑作業をしていた高橋さんは、激しい揺れに襲われました。近所の人々と顔を見合わせ、誰からともなく高台の方へ歩き出した時、「早く逃げて!」という切迫した声が飛び交いました。高橋さんも家族4人で声を掛け合い、高台への避難を開始していました。
地震発生後、高台へ避難する人々のイメージ写真。災害への備えの重要性を示す。
「位牌を…」母の言葉が運命を変えた
まさにその時でした。80代の母親が発した「自宅の位牌(いはい)を、持っていかなきゃ」という言葉に、高橋さんは思わず足が止まり唖然としました。「なぜ今、位牌なの?」と問いかけましたが、母の決意は固く、自宅へ引き返し始めました。戦争や災害など、さまざまな困難を生き抜いてきた母にとって、先祖代々の位牌は家族そのものであり、決して置いていくことのできない大切な存在だったのです。
津波の襲来と、目前で見た悲劇
年老いた母を一人で行かせるわけにはいかないと、高橋さんも母の後を追って自宅へ引き返しました。玄関から仏間へと急ぎ、母が位牌を手提げ袋に入れた、まさにその瞬間――ドーンッ。鈍く重たい地響きのような音が家全体に伝わってきました。ガラス窓の外には、土煙を巻き上げながら、家々を押し流して迫る大津波の姿がありました。高橋さんは母の手を掴み、裏口から逃げようとしましたが、全く間に合いませんでした。泥水が一気に家の中に押し寄せ、瞬く間に足元を奪い、腰まで達しました。
いまも残る自責の念
あまりに凄まじい水流に、もはや足で立つことは不可能でした。母は柱にしがみつき、流されまいと必死に耐えましたが、濁流は容赦なく母の手を振りほどきました。「お母さん!」と叫ぶこともできず、高橋さんは濁流に沈んでいく母の表情をただ見つめ続けることしかできませんでした。母もまた、最期まで高橋さんの目を見つめていたといいます。手を伸ばしても届かず、叫ぼうとしても声が出ない――津波に飲まれていく母の姿は、いまも悪夢となって高橋さんを苦しめています。「自分が母を殺したのではないか」「なぜ先人の教訓を生かせなかったのか」と、高橋さんは深い自責の念に苛まれ続けています。
教訓:命を守る行動を最優先に
高橋さんの壮絶な体験は、巨大災害発生時における「命を守る行動」の重要性を改めて私たちに強く問いかけます。先祖への思いや大切なものも、もちろん重要です。しかし、津波やその他の自然災害から自らの命、そして家族の命を守るためには、警報や自治体からの避難指示に従い、一刻も早い安全な場所への避難こそが、生死を分ける唯一の行動となります。東日本大震災という未曽有の災害から得られたこの重い教訓を胸に、来るべき南海トラフ巨大地震や首都直下地震など、日本が直面する可能性のある巨大災害への備えを、私たち一人ひとりが真剣に進めることが急務です。