「731部隊」生存者の証言:満州の村を襲った悪夢のペスト禍

旧日本軍の細菌戦部隊、通称「731部隊」が満州で行ったとされる人体実験や細菌兵器開発の実態は、長年の沈黙を経て徐々に明らかになりつつあります。特に、当時の隊員や被害を受けた人々の生々しい証言は、その隠蔽されてきた歴史の闇に光を当てています。共同通信社社会部が編纂した『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)には、彼らの声が克明に記録されています。この記事では、同書に収録された、満州でペストの犠牲となった村の生存者の証言を通じて、731部隊が地域社会に与えた壊滅的な被害の一端を紹介します。

満州・平房地区、ある村の悲劇

緑豊かなポプラ並木が続く中国東北部(旧満州)のハルビン市街から車で約30分。夏の日差しが降り注ぐ平房地区の農村で、私たちは靖福和氏(当時61歳)に会いました。白髪交じりの頭、温和な眼差しを持つ彼は、11歳だった頃の記憶を語り始めました。

「悪夢のような出来事でした。この村がペストに襲われ、父と姉弟の3人が死んでしまったんです。村中に死人があふれ、腐臭が立ち込めました」

地元の飛行機製造会社を定年退職し、娘や孫に囲まれて暮らす靖氏は、遠い日の悲劇を振り返りました。

旧日本軍731部隊が使用していた満州平房地区の施設外観旧日本軍731部隊が使用していた満州平房地区の施設外観

部隊施設での爆発と、その後の異変

1945年8月10日すぎ、靖氏の村から西へ3キロメートルほどの距離にあった関東軍防疫給水部、通称「731部隊」の施設で大規模な爆発が起きました。

「ゴーッという爆発音に驚いて外に飛び出しました。昼間なのに空が光り、5階建てビルより高い黒煙が何本も噴き出していました」

靖氏は、以前からそこに日本人がいることは知っていたものの、彼らが何をしているのか全く知りませんでした。子供はもちろん大人も近づくことは禁じられており、汽車に乗って近くを通る際も窓のカーテンを下ろさなければならないほど、部隊の存在は徹底的に秘匿されていたのです。

爆発が4日間ほど続いた後、部隊から逃げ出したとみられるネズミの大群が村に押し寄せました。トウモロコシの貯蔵かごは茶色や白のネズミで埋め尽くされ、大豆畑は食い荒らされて丸裸になってしまいました。

旧日本軍731部隊の部隊長、石井四郎中将の肖像写真旧日本軍731部隊の部隊長、石井四郎中将の肖像写真

ネズミが媒介したペストの発生

ネズミの大群は冬眠のため一時姿を消しましたが、翌1946年の春には再び姿を見せるようになりました。村を歩くと、そこら中にネズミの死体が転がっており、そこに無数のノミがいっぱいたかっていました。

小麦の収穫が始まった46年7月末、村で最初のペスト患者が発生しました。そして、靖氏の父である如山氏(当時40歳)、14歳だった姉、そして10歳だった弟も相次いで高熱を出しました。

「3人のわきの下、耳の下、足の付け根など体中のリンパ節がはれ、首は頭と同じ太さに膨れました。ものも言えず水も飲み込めない。手当ても何もできず、ただうめき続けるのを見守るしかなかったんです」

家族を襲った凄惨な死

発病からわずか3日目の朝、姉は苦しげに顔をゆがめ、目を見開いたまま息絶えました。父もその日正午、姉の後を追うように亡くなりました。

「残った弟のまくら元で『どこが痛いの』と懸命に話し掛けました。でも弟は『お兄ちゃん』と呼ぶこともできず、真っ黒な血を吐いて死にました。父の死の2時間後でした。弟の悲痛なうめき声と表情は忘れられません」

遺体を埋葬しようにも、ペストという伝染病であるということが分かっていたため、村の誰も手を貸してくれませんでした。遺体は腐敗が進み、耐え難い腐臭が家中に充満したといいます。

結論:語り継がれるべき事実

靖福和氏が語ったペスト禍は、旧日本軍731部隊が細菌兵器を開発・使用し、最終的に証拠隠滅を図ったことによって引き起こされた悲劇の一例です。秘密裏に行われた部隊の活動は、終戦後も長らくその全容が隠蔽されてきましたが、元隊員や被害者の証言によって、その恐るべき実態が少しずつ明らかになっています。靖氏のように、肉親を奪われ、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験した人々が存在したという事実は、歴史の闇に葬られることなく、正確に語り継がれていくべき重要な歴史の一部です。彼らの声に耳を傾けることは、過去の過ちから学び、未来への教訓とすることに繋がります。

参考文献

  • 共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』朝日文庫