2015年、政治家引退後に体調不良で緊急搬送された石原慎太郎氏(享年89)。当時、健康状態への懸念がささやかれる中、週刊誌『FRIDAY』が彼の意外なほど元気な散歩姿をスクープしました。これは、10年前の『FRIDAY』の記事を振り返り、その時の彼の健康状態と体力作りへの取り組み、そして波乱に満ちた生涯の一端に光を当てるものです。政界を去ってもなお注目を集めた石原氏の姿を通じて、当時の出来事と彼の人物像を改めて紐解きます。
島根での緊急搬送とその後の様子
2014年に政界を引退した石原氏は、2015年6月7日、島根県での講演中に突然の頭痛を訴え、緊急搬送されました。搬送翌日には報道陣に対し「もう元気になって、(病院からも)無罪放免になりました」と元気な様子を見せていましたが、2013年にも脳梗塞で入院していたことから、「重病説」も根強く囁かれていました。多くの人々が彼の健康状態を心配する中、その後の6月下旬、『FRIDAY』が都内で捉えた彼の姿は、これらの懸念を払拭するようなものでした。
『FRIDAY』が捉えた回復の兆し
《すれ違った男子高校生のグループは驚いて何度も何度もふり返っていた――。
6月下旬の夕暮れ、都内有数の高級住宅街を一人で散歩していたのは、元東京都知事にして作家の石原慎太郎氏(82)だ》
紺色の地味なトレーニングウェアに白いスニーカーというラフな格好の石原氏。日焼けした肌とフサフサした髪のおかげで、当時82歳とは思えぬ若々しい印象でした。その足取りは、島根で病院に搬送された後の気丈な様子が、決して強がりではなかったことを示しているようでした。
石原慎太郎氏が都内の高級住宅街を散歩する様子。紺色のウェア姿。
散歩からウォーキング、そしてジョギングへ
《狭い歩幅で、セカセカと歩く。もはや散歩というよりはウォーキングというべきかもしれない。近所の住民からどんなに視線を向けられても、石原氏は真っすぐ前を見据えて歩き続ける。
自宅を出て15分ほど経ったところでUターン。その途端、両腕を軽く振り、速度を少し上げた。82歳という年齢を考えればもう立派なジョギングだ》
彼の歩行は、ただの散歩というよりもしっかりとしたウォーキングでした。そして、折り返した後は、腕を振ってさらにペースアップ。82歳とは思えないほどの立派なジョギングを見せたのです。一心不乱に歩き続けるその姿からは、体力作りへの強い意志が感じられました。
回復後、体力作りのためか、速いペースでウォーキングまたはジョギングを行う石原慎太郎氏。
知人が語る健康習慣と体力作り
当時の石原氏の様子について、古い知人はこう語っています。
「島根で病院に運ばれたときは、講演に参加者が1500人くらい集まったため、本人も大喜びして『つい興奮してしまったんだ』と話していましたね。現地に主治医が同行していたので事なきを得ましたが、あのまま講演を続けていたら危険な状況に陥っていたそうです。石原家は高血圧の家系ということもあり、普段から慎太郎さんは心配性で、何か不調を感じるとすぐさま病院に駆け込むんです。その習慣のおかげで島根でも助かりました。2年前の脳梗塞は軽症で、後遺症もなくいまは問題ありません。散歩は体力作りのため。自宅にいる際は日課にしていると聞いています」
この証言からは、石原氏が自身の健康に気を配り、定期的な散歩を体力作りのために欠かさなかったことがわかります。また、緊急搬送の直前には、橋下徹大阪市長(当時)のパーティーに日帰りで出席するというサプライズも行っており、そこでも橋下氏に「君は政治家を辞めちゃいけない人だ」と激励し、拍手を浴びたそうです。
石原氏は約2kmのコースを約30分かけ、ジョギングとウォーキングを繰り返しながら歩き切りました。途中、ペットボトルの飲料で水分補給する姿も見られました。2014年に出版した著書『私の海』では、「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記したと明かしていましたが、この時の彼の眼光は、まだまだ鋭さを保っていました。
政界での活動と物議を醸した発言
石原氏は1995年に衆議院議員を辞職し、4年後に都知事に就任、4期13年を務めました。4期目の途中の2012年に都知事を辞任し、橋下徹氏らの『日本維新の会』に合流して国政に復帰。「80歳の暴走老人」と自称し、橋下徹氏との二枚看板で54議席を獲得しましたが、2014年には橋下徹氏と決別し『次世代の党』を立ち上げるも、衆院選で議席を失い政界引退を表明しました。
在日韓国・朝鮮人や中国人への差別的な発言や、東日本大震災の津波を「天罰だと思う」(後に撤回・謝罪)といった歯に衣着せぬ物言いがたびたび物議を醸しました。一方で、都知事時代には業界の反発を押し切ったディーゼル車規制や、国とのパイプを生かした羽田空港の国際化、尖閣諸島**の都による購入意向表明(後の国有化へ繋がる)など、石原氏ならではの思い切った政策を次々と実現しました。
晩年と筆を置くまで
2017年には豊洲市場の移転問題をめぐって糾弾される場面もありましたが、政界引退後の石原氏は、おおむね穏やかに執筆や講演の日々を過ごしたようです。2021年に膵臓がんが再発し、余命3ヵ月を告げられてからも、亡くなる1週間前まで1日1~2時間、執筆活動を続けていたといいます。
政界引退の会見で「死ぬまで言いたいことを言い、やりたいことをやって人から憎まれて死にたい」と語っていた石原氏。たしかに彼を憎んでいた人もいたかもしれません。しかし、良くも悪くも、それよりも多くの人の心に強烈な印象を残し、記憶に残る人物であったことは間違いありません。
緊急搬送からの回復、そして懸念を払拭するような精力的な散歩姿をFRIDAYが捉えたのは、そんな石原慎太郎氏の一つの側面に過ぎません。波乱万丈な生涯を送った彼の「プレイバック」は、今なお多くの示唆を与えてくれます。