焼け野原に生まれた活気:戦後新宿闇市を拓いた尾津喜之助の軌跡

現在、日本有数の繁華街として知られる新宿も、第二次世界大戦終結直後はその様相を一変させていました。無差別空襲により市街地の大部分が焼失し、広大な焼け野原が広がっていたのです。物資の欠乏は極限に達し、人々の生活は困難を極めました。このような状況下で、生活物資や食料流通の場として重要な役割を果たしたのが戦後に各地で自然発生的に生まれた闇市です。中でも新宿には大規模な闇市が形成されましたが、その立ち上げを驚異的な速さで実現させた一人の男がいました。後の「新宿をつくった男」とも称される尾津喜之助です。彼は終戦からわずか数日後にこの巨大インフラを稼働させ、焼け野原からの復興の一歩を記したのです。

戦後新宿の壊滅状況と尾津喜之助の「持っていた」もの

終戦の日、新宿は市街地の実に8割が灰燼に帰していました。約22万人が住まいを失い、文字通りの焼け野原となった駅周辺には、真夏の日差しを浴びる瓦礫と虚無感が広がっていました。食料をはじめとするあらゆる物資は欠乏し、新宿御苑の庭園さえ国民の食糧難を補うために芋や南瓜の畑と化していたほどです。しかし、この壊滅的な状況にあっても、露天商を率いる尾津喜之助は他者とは異なる様相を呈していました。彼には、数十万円の現金、大量の商品在庫、闇ルートでの仕入れ・販売ノウハウ、迅速に動く子分という人的リソース、連携できる組織力、そして軍需工場との取引ルートなど、この時代においては極めて貴重な「持つもの」が多数備わっていたのです。さらに、彼は闇での大きな儲けに対する後ろめたさ、厳しい道徳心、そして溢れんばかりの自己顕示欲という、複雑な内面も持ち合わせていました。

戦後、焼け野原となった都市に立つ闇市の光景戦後、焼け野原となった都市に立つ闇市の光景

終戦直後の電撃行動:闇市開設への道筋と公認の獲得

玉音放送が流れた後、尾津の持つ全てが化学反応を起こし、アイデアと行動力が爆発しました。終戦翌日の8月16日、彼は迷うことなく行動に移ります。まず向かったのは淀橋警察署でした。これまでにも築いてきた当局との「貸し」をさらに積み上げるべく、焼け跡の無償整理を申し出ると同時に、その見返りとして新宿マーケット建設の内諾を要求したのです。警察署長は彼の提案を一も二もなく認めました。「これで動ける」――尾津は確信しました。これは、戦後闇市が単なる無法地帯で、無政府状態に乗じて無法者が勝手に作った、という一般的な誤解を解く重要な点です。実際には、戦前から下地があり、このように当局の黙認や許可を得てから堂々とスタートした例も多く存在しました。首都の中心に、全くの無許可でこれほど大規模なマーケットを建設することは不可能だったでしょう。

驚異的な速さでの資材調達とマーケット建設への情熱

警察署での内諾を得た尾津の行動は、さらに加速します。腰の軽い親分として、彼はただちにマーケット建設に必要な資材調達に奔走しました。淀橋警察署を出るやいなや、彼は埼玉県の鳩ヶ谷にある籠・簀垂れ問屋の田中屋へ直行し、マーケット用の9尺2寸(約2.7メートル)のヨシズと竹竿を18日までに用意させる約束を取り付けました。次に必要だったのが丸太です。手持ちだけでは到底足りないことを悟った彼は、かつて大久保の町会が陸軍技術本部から払い下げを受けていた丸太があったことを思い出し、埼玉から新宿へ引き返します。町会長宅へ到着した時には既に夜も更けていましたが、酒に酔った会長に代わり、会長夫人に副会長宅を教えられ、深夜にもかかわらず焼け跡に焼け残った門柱を目印に一人歩いて向かいました。

闇市建設を推進した尾津の起業家精神

この一連の驚異的なスピードと行動力は、尾津喜之助の並外れた起業家精神の表れと言えます。コネも潤沢な資本もない戦前から、そして物資が極度に不足した戦中でさえ莫大な利益を上げていた彼は、現代で言うところのベンチャー企業経営者にも通じる、優れた現状認識力とビジネス感覚を持っていました。時代に即した事業機会を見出せば、おのれを信じ、即座に行動に移すことができる。伸るか反るかの勝負の瞬間には、並々ならぬ興奮を感じていたことでしょう。自らが立てた計画に基づき、自らを突き動かし、他人が面倒に感じるような困難な工程も、目標達成のための明確なステップとして捉える。その過程そのものに喜びを見出し、足取りは軽く、脳内には達成感や快楽物質が溢れていたに違いありません。

焼け野原からの新生:尾津喜之助と新宿闇市の遺産

戦後日本の混乱期において、物資流通の生命線として機能した新宿闇市。その急速かつ公然たる立ち上げを主導した尾津喜之助の先見の明と卓越した実行力は、混沌の中から秩序を生み出す原動力となりました。彼の迅速な決断と行動は、廃墟と化していた新宿が再び活気を取り戻し、現代へと繋がる繁華街へと発展していく上で、間違いなく歴史的な第一歩だったと言えるでしょう。闇市という形態は時代の流れとともに変化していきましたが、その礎には、一人の強力なリーダーシップと、困難な状況下でも機会を見出し、立ち向かう不屈の精神があったことを、私たちは忘れてはなりません。

参照文献

フリート横田『新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史』