老後の生活を支える重要な柱である公的年金。毎年誕生月に送られてくる「ねんきん定期便」は、自身の将来設計を描く上で欠かせない情報源です。しかし、そこに記載されている情報を安易に信じ込むと、思わぬ事態を招き、老後の計画が狂ってしまうケースも少なくありません。
「これで安泰」59歳男性が見たバラ色の未来
都内の中堅メーカーに勤める林田哲也さん(60歳)は、若い頃からお金が入れば使うという生活を送ってきました。貯蓄はほとんどなく、「楽しければそれでいい」という考え方が根付いていたといいます。しかし、今から10年ほど前、「定年が視野に入ってきたとき、急に将来への不安に襲われるようになった」と語ります。それ以来、林田さんはコツコツと貯蓄に励むようになりました。
転機の一つは、年金に対する考え方の変化です。将来受け取れる年金額がどれくらいになるのか、気になるようになった林田さんは、毎年送られてくる「ねんきん定期便」を熱心にチェックするようになりました。「ねんきん定期便」は、日本年金機構から送付されるもので、自身の年金記録を確認できます。特に50歳以上の場合、老齢年金の種類と「見込額」が記載されており、これが老後生活設計の重要な手がかりとなります。
林田さんは「ねんきん定期便」に記された年金額を見込み、目標貯金額を設定して努力を重ねてきました。そして59歳の誕生月に届いた定期便には、65歳から受け取れる年金の見込額として「月額約16万円」という数字が明確に記載されていました。
「月16万円か。これだけあれば、年金だけでも何とか暮らしていけるだろう」
総務省『家計調査 家計収支編(2024年平均)』によると、60歳以上の単身男性の1ヵ月の平均支出額は15万9,249円です。林田さんはこの平均支出額を基に、「年金だけで十分生活できる」と判断しました。そして、60歳から年金受給開始までの5年間を平均的な暮らしで乗り切れば、合計で955万円ほどの貯蓄があれば安心だと試算。このシミュレーション結果を受け、林田さんはある大きな決断を下しました。
「60歳で仕事をきっぱり辞めるよ」
老後の生活資金について考える高齢男性のイメージ
「ねんきん定期便」見込み額の落とし穴と現実のギャップ
林田さんが「バラ色の未来」を確信した背景には、「ねんきん定期便」に記載された年金見込み額がありました。しかし、この見込み額を鵜呑みにすることは、時に大きな誤算を生む可能性があります。
「ねんきん定期便」に記載される年金見込み額は、あくまで現時点までの加入実績に基づき、今後も現在の働き方(例えば、会社員として60歳まで厚生年金に加入し続ける、あるいは65歳まで国民年金に加入し続けるなど)を継続した場合の推計値です。林田さんのように60歳で仕事を完全に辞め、厚生年金の加入期間が終了した場合、その後の年金見込み額は変動する可能性があります。また、60歳以降も再雇用などで働き続け、厚生年金に加入すれば年金額は増えますが、その分、在職老齢年金制度によって年金の一部が支給停止される可能性もあります。
公的年金制度は複雑であり、個々人の加入期間、加入履歴、平均標準報酬額、さらには年金受給開始年齢の選択(繰り上げ受給や繰り下げ受給)によって、最終的な受給額は大きく変わります。林田さんが参照した単身男性の平均支出額も、あくまで平均値であり、個々人のライフスタイルや健康状態、住宅事情などによって必要な生活費は異なります。
老後資金計画の重要性:見込み額だけに頼らないために
林田さんの事例は、「ねんきん定期便」が示す見込み額が、老後の生活設計において唯一の基準ではないことを示唆しています。老後資金計画を立てる際には、以下の点を考慮することが不可欠です。
まず、年金見込み額の算出根拠を理解することです。日本年金機構のウェブサイトや年金事務所で、より詳細なシミュレーションを行うことができます。自身の実際の働き方や退職時期を反映させた上で、年金受給額を予測しましょう。
次に、具体的な老後生活費の把握です。総務省の家計調査データは参考になりますが、自身のライフスタイルに合わせた支出計画を立てることが重要です。医療費や介護費用といった予期せぬ出費も考慮に入れる必要があります。
最後に、公的年金以外の資産形成です。貯蓄や個人年金保険、iDeCo(個人型確定拠出年金)、つみたてNISAなどを活用し、計画的に資産形成を進めることが、より安心して老後を迎えるための鍵となります。
「ねんきん定期便」は老後設計の出発点として非常に有用なツールですが、そこに示された数字を盲信せず、多角的な視点から自身の将来を具体的に描くことが、後悔のないセカンドライフを送るために何よりも重要です。必要であれば、ファイナンシャルプランナーなどの専門家に相談することも有効な手段でしょう。
参考文献
- 日本年金機構: https://www.nenkin.go.jp/
- 総務省統計局 家計調査 家計収支編(2024年平均): https://www.stat.go.jp/data/kakei/index.html