太平洋戦争の「絶対国防圏」:ブーゲンビル島で見捨てられた兵士たちの証言

太平洋戦争中、激戦地となったソロモン諸島、特に「墓島」と称されたブーゲンビル島では、数多くの日本兵が犠牲となりました。この悲劇の裏には、日本政府が打ち出した「絶対国防圏」構想によって見殺しにされた兵士たちの存在があります。ノンフィクション作家の神立尚紀氏が、過酷なサバイバルを生き抜いた福山孝之・元海軍大尉(故人)の貴重な証言を通して、その知られざる実態を明らかにします。

「絶対国防圏」構想:国に見殺しにされた30万の命

昭和18年9月30日、太平洋戦争の戦況悪化を受け、日本政府は戦線縮小と作戦方針の見直しを含む「絶対国防圏」構想を発表しました。これは、北は千島列島からマリアナ諸島、西部ニューギニアに至るラインを死守するという戦略的な防衛線を定めるものでしたが、同時にその圏外に取り残された約30万もの日本軍将兵を国が見捨てることを意味していました。補給を絶ちながらも降伏は許さず、死ぬまで戦うことを命じるという、世界史上稀に見る無茶な命令。当時、パプアニューギニアのブーゲンビル島トリポイルで対空砲台指揮官を務めていた福山孝之元海軍大尉は、「この構想を聞かされたときは、とんでもないことだとみんな憤慨していましたね」と、当時の兵士たちの心情を代弁します。

海軍予備学生・福山孝之大尉の激戦地への派遣

大正7年生まれの福山孝之氏は、昭和16年12月に東京帝国大学法学部を繰り上げ卒業後、海軍の初級指揮官を養成する新設制度「海軍兵科予備学生」を志願しました。翌年1月には1期生として横須賀海兵団に入団し、千葉県の館山砲術学校で陸上戦闘指揮の猛訓練を受けました。

昭和18年1月に予備少尉任官後、横須賀鎮守府第七特別陸戦隊に配属され、ソロモン諸島の激戦地へと送り込まれることになります。「絶対国防圏」構想発表以前から、彼は最前線にいました。

福山孝之元海軍大尉の唯一現存する海軍時代の写真。昭和17年11月、兵科予備学生時代の制服姿。福山孝之元海軍大尉の唯一現存する海軍時代の写真。昭和17年11月、兵科予備学生時代の制服姿。

ブーゲンビル島トロキナ上陸と絶望的な防衛戦

「絶対国防圏」構想発表から約1か月後の昭和18年11月1日、米軍はブーゲンビル島中南部のトロキナに上陸を開始しました。米軍は瞬く間に飛行場を建設し、島全体の制空権を完全に掌握。これに伴い、日本軍陣地に対する空襲は日々激しさを増していきました。この絶望的な状況下で、兵士たちは孤立無援の戦いを強いられたのです。

見捨てられ、補給途絶の中、降伏は決して許されず、敵機が飛来すれば戦い続けるしかありませんでした。福山元大尉は当時の壮絶な戦闘と部下の献身を振り返ります。
「見捨てられても降参は許されない。敵機が来たら戦わなければなりません。私の砲台では、偽陣地をつくって敵の攻撃をそらすなどの工夫を重ねながら、連日連夜、戦闘に明け暮れました。あるとき、銃座が直撃弾をくらって5名が一度に戦死したことがありましたが、班長の下士官は、頭に負傷して血をしたたらせながらも手ぬぐいで鉢巻をして、一生懸命に機銃を修理していた。そういう責任感の強い部下に恵まれたことは、あの酷い戦争のなかでの唯一の救いでした。」

福山氏が指揮官を務めたトリポイルの対空砲台は隊員143名、12センチ高角砲4門、25ミリ連装対空機銃3基、20ミリ機銃3挺、その他高射器、測距器、探照灯などを装備していました。圧倒的な敵の攻撃に対し、食料や弾薬が不足する劣悪な環境下で、彼らは最後まで必死の抵抗を続けていたのです。

福山孝之元海軍大尉の証言は、太平洋戦争末期の「絶対国防圏」構想が、いかに多くの日本兵を絶望に追い込み、国に見殺しにしたかという悲劇の現実を明確に示しています。補給が途絶え、降伏も許されない極限状態の中で、彼らが示した責任感と戦い続けた事実は、歴史に刻まれるべきものです。ブーゲンビル島での過酷な戦いは、犠牲となった兵士たちの無念と、生き残った者の苦難を今に伝える貴重な教訓と言えるでしょう。

参考文献