日常が侵食される恐怖:読者を震え上がらせる「侵入者」ミステリーの世界

見知らぬ他者、あるいは予期せぬ出来事が穏やかな日常を少しずつ、しかし確実に侵食していく――。そんな心理的な恐怖を描いた小説は、読者に深い戦慄と共感を呼び起こします。今回は、住居や家族、個人の精神空間に「侵入者」が足を踏み入れることで展開する、息をのむようなミステリー作品を3点ご紹介します。これらの作品は、あなた自身の内なる不安を揺さぶり、読み進める手が止まらなくなるでしょう。

青山七恵『前の家族』:所有する家が他者に支配される心理的葛藤

青山七恵著『前の家族』が描く、新しい家での人間関係の葛藤と心理スリラーの始まり。青山七恵著『前の家族』が描く、新しい家での人間関係の葛藤と心理スリラーの始まり。

青山七恵の『前の家族』は、37歳の小説家・猪瀬藍が念願の中古マンションを購入するところから始まります。一人暮らしには広すぎる2LDKの空間に、藍は「自分の思い通り」という満足感を覚えていました。しかし、その平静は長くは続きません。以前この部屋に住んでいた家族、特に幼い娘たちと母親の小林杏奈が、なぜか頻繁に藍の部屋を訪れるようになるのです。「この家が大好きなんです。いまもほかの誰かの家とはとても思えない」と語る杏奈の言葉に、藍は当初困惑を覚えます。

青山七恵の小説『前の家族』の書影。不穏な空気と日常の侵食を予感させるデザイン。青山七恵の小説『前の家族』の書影。不穏な空気と日常の侵食を予感させるデザイン。

やがて藍の感情は困惑から親しみに変わり、自身が小林家に出入りするようになるという逆転現象が起こります。親切にされ、温かいもてなしを受けるうちに「人に感謝することの強烈な快楽」を感じる藍。しかし、その先に待ち受ける事実は、読者にある種の「正常性バイアス」を働かせることを迫ります。何かおかしいと直感しながらも、それを認めたくない人間の心理が克明に描かれており、読むほどに他者との境界線が曖昧になるような不穏な感覚に囚われます。

朝倉かすみ『遊佐家の四週間』:家族の日常を蝕む謎の同居人

朝倉かすみ著『遊佐家の四週間』の書影。家族の日常が崩れていく様子を描いたミステリー小説。朝倉かすみ著『遊佐家の四週間』の書影。家族の日常が崩れていく様子を描いたミステリー小説。

「侵入者」による日常の侵食というテーマを、逆のベクトルで描いたのが朝倉かすみの『遊佐家の四週間』(祥伝社文庫)です。この物語では、美しい主婦・羽衣子が、異様な容姿を持つ幼なじみのみえ子を期間限定で自宅に同居させるところから幕を開けます。羽衣子の夫、娘、息子はみえ子の登場に絶句しますが、みえ子は卓越した共感能力と洞察力を持ち、次第に家族それぞれの心を掴んでいきます。

その存在感を増していくみえ子は、いつしか遊佐家における「闇の女王」のような存在と化し、家族の日常は目に見えて変容していきます。家族間の表面張力が限界に達し、決壊するクライマックスは圧巻の一言。舞台の表と裏が秒刻みで交錯するような緊張感は、読者を物語の世界に強く引き込み、家族という閉じた空間で起こる心理的な支配の恐ろしさを存分に味わわせてくれます。

プリーストリー『夜の来訪者』:招かれざる警部が暴く富裕な家族の秘密

プリーストリーの戯曲『夜の来訪者』の書影。ある家族に訪れる「招かれざる客」の物語。プリーストリーの戯曲『夜の来訪者』の書影。ある家族に訪れる「招かれざる客」の物語。

空間への「侵入者」という要素を巧みに用いた古典として、英国の劇作家J.B.プリーストリーによる戯曲『夜の来訪者』(安藤貞雄訳、岩波文庫)は外せません。物語は、裕福なバーリング家が娘の婚約を祝うディナーの最中に、グールと名乗る警部が突然訪れるところから展開します。警部は数時間前に自死した若い女性の件について、バーリング家の人々から話を聞きたいと言います。

この招かれざる客である警部は、鋭い質問と洞察力で、バーリング家それぞれのメンバーが、自死した女性の人生にどのように関わっていたかをゆっくりと、しかし確実に暴いていきます。表面的には完璧に見えた家族の秘密や偽善が次々と明らかになる様は、心理的なサスペンスに満ちています。そして、ぞくりとするような衝撃的な結末は、観る者・読む者に深い問いかけを残し、人間の倫理観や社会的な責任について深く考えさせる傑作です。

参考文献

  • 『前の家族』青山七恵 著(小学館)
  • 『遊佐家の四週間』朝倉かすみ 著(祥伝社文庫)
  • 『夜の来訪者』J.B.プリーストリー 著、安藤貞雄 訳(岩波文庫)
  • レビュアー: 北村浩子(フリーアナウンサー・ライター)
  • 協力: 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部