日航機墜落事故40年:生存者の兄が語る「御巣鷹山」と家族の記憶

2025年8月12日、日本航空123便ジャンボ機墜落事故から40年という節目の日を迎えました。520名の尊い命が失われたこの未曽有の悲劇は、多くの人々の心に深く刻まれています。「文藝春秋」誌に2015年に掲載された“奇跡の生存者”川上慶子さんの兄・千春さんの手記は、両親と末妹を失った兄妹の、ありのままの人生を綴ったものです。本記事では、この手記の一部を再紹介し、事故から40年が経過した今もなお続く、遺族の深い悲しみと、静かな回復への道のり、そして御巣鷹山に抱く特別な思いをお伝えします。

御巣鷹山への初訪問と深い思い

事故の翌年、8月3日に上野村で執り行われた追悼慰霊祭には、川上慶子さんを除くご親族が参加し、御巣鷹山への慰霊登山が行われました。墜落現場は想像を絶するような山奥であり、鬱蒼と生い茂る森林の中、ほとんど足場の見えない獣道を辿り、事故機が墜落した尾根まで、一行は1時間以上かけてゆっくりと登ってゆきました。尾根に到着すると、鹿児島のご親戚が用意した、犠牲となった3名のご家族の名前が刻まれた墓標が建立されました。手記を綴った千春さんは、その後も何度もこの場所を訪れることになります。

日航機墜落事故現場の御巣鷹山で捜索活動を行う自衛隊員。鬱蒼とした山林での過酷な任務が続く様子。日航機墜落事故現場の御巣鷹山で捜索活動を行う自衛隊員。鬱蒼とした山林での過酷な任務が続く様子。

慶子さんが初めて御巣鷹山を訪れたのは、事故から2年が経過した翌々年の10月のことでした。この時は、高校1年生になっていた千春さんも含め、親戚一同での参拝となりました。千春さんが慶子さんと共に御巣鷹山に登ったのは、この一度きりだと語られています。慶子さんは当時、同行した報道陣に対し、強い不満を抱いていたといいます。遺族にとって御巣鷹山は、大切な家族が命を落とした神聖な場所であり、報道関係者が仕事とはいえ遠慮なく入り込み、慶子さんの写真を多数撮影して帰っていくことに対し、千春さんもまた強い抵抗感を覚えていました。彼らの心からの願いは、家族だけで静かに亡き人々を悼むことでした。

家族の絆と回復への道のり

慶子さんと千春さんの2人で、前年に建立された墓標の隣に、新たな墓標が一つ建てられました。そこには、亡き父親が生前大切にしていた言葉が刻まれています。

〈一人は万人の為に 万人は一人の為に〉

この言葉は、過酷な現実の中で生きる家族にとって、互いを支え合う精神的な支柱となったことでしょう。その後、慶子さんは少しずつ元気を取り戻し、以前のように陸上部の活動に打ち込むようになりました。悲劇から長い年月を経て、川上家にはようやく「普通の日々」が戻りつつありました。しかし、あの事故が残した心の傷と記憶は、決して消えることはありません。

参考文献

  • 文藝春秋. 「奇跡の生存者 川上慶子さんの兄・千春さんの手記」『文藝春秋』2015年9月号, 文藝春秋.
  • Yahoo!ニュース. 「日航ジャンボ機墜落事故から40年、奇跡の生存者の兄が語る「御巣鷹山」と家族の記憶」https://news.yahoo.co.jp/articles/7905188ed1ec3701f5c65ace409674894adfa2bd (参照2025-08-12).