80年前、終戦直後の長崎でアメリカ海兵隊の従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏によって撮影された一枚のモノクロ写真がある。「焼き場に立つ少年」と名付けられたその写真は、核兵器の悲劇と平和の尊さを訴え続けている。しかし、この長崎で生まれた象徴的な写真が、毎年夏に遠く離れた福島県会津若松市で展示されていることをご存じだろうか。本記事では、この写真が持つ普遍的なメッセージと、福島との間に結ばれた深い縁、そして「核なき世界」への願いがどのように現代に伝えられているのかを紐解く。
「焼き場に立つ少年」:平和を訴え続ける一枚
長崎に原爆が投下され、約15万人が死傷した直後の混沌とした街で、オダネル氏は目撃した光景を自身のカメラに収めた。その中の一枚が、多くの人々の心に深く刻まれている「焼き場に立つ少年」である。裸足のまま直立不動で立ち、唇を固く結んだ少年。彼の背中には、原爆の犠牲となった幼い弟が背負われていた。弟の死をただ静かに受け止め、火葬の順番を待つ少年の姿は、戦争の悲惨さと、人間の尊厳を力強く訴えかけている。
オダネル氏は、廃墟と化した長崎で愛する家族を探し求める人々や、故郷の変わり果てた姿に言葉を失う兵士たちの姿を記録した。彼は、この写真を40年余り封印した後、核兵器の使用を正当化するアメリカにおいて、亡くなるまでその恐ろしさと平和の重要性を訴え続けた。彼の回顧録には、「最後の日本帝国陸軍が、廃墟となった長崎へ帰ってきた。ふるさとに原子爆弾がもたらしたあまりのむごい光景に、彼らは言葉を失い打ちひしがれていた。愛する家族を探す彼らの旅が終わることはないだろう」という言葉が残されている。
80年前の長崎、原爆投下後の焼け野原で弟を背負い直立不動で立つ「焼き場に立つ少年」の姿。核兵器の悲劇と平和の尊さを訴える象徴的な一枚。
福島・会津若松に受け継がれる「核なき世界」への願い
ではなぜ、長崎で撮影されたこの写真が、遠く離れた福島の地、会津若松市で展示され続けているのだろうか。その背景には、オダネル氏と会津若松の間に築かれた特別な縁がある。実は、オダネル氏の妻が会津若松の出身であり、その縁からこの貴重な写真が市内の若松栄町教会に寄贈されたのだ。以来、教会では毎年8月上旬、礼拝堂の中央に「焼き場に立つ少年」が展示され、多くの人々がそのメッセージに触れる機会を得ている。
この写真は、2017年には当時のローマ教皇フランシスコがカードにして裏面に「戦争がもたらすもの」との言葉を添え、世界中に広めるよう指示を出したことでも広く知られている。若松栄町教会の片岡輝美さんは、毎年訪れる人々が「やはり夏は少年に会わなくては…」と語ることに触れ、「来年もまた8月の初めに(写真展を)開くことによって、(終戦から)81年82年と平和が続いていく。私たちがさらなる平和をつくっていければいい」と、平和への願いを新たにする。教会には、オダネル氏がしたためた講演の原稿も保管されており、そこには「二度とヒロシマもナガサキも繰り返してはいけない。二度と二度と繰り返してはいけない」という力強いメッセージが綴られている。
結び
「焼き場に立つ少年」は、80年前の長崎の悲劇を今に伝えるだけでなく、戦争の記憶を風化させず、未来に向けて平和の重要性を問い続ける一枚である。ジョー・オダネル氏が妻の故郷である福島・会津若松の教会に託した「核なき世界」への切なる願いは、毎年開催される写真展を通じて、世代を超えて受け継がれている。この写真は、私たち一人ひとりが平和のために何ができるかを考える、貴重な機会を提供してくれるだろう。
参考資料
- FNNプライムオンライン (2024年8月24日). 80年前の日本で撮られた「焼き場に立つ少年」がなぜ毎年福島で展示されるのか…作者が訴え続けた「核なき世界」への願い. https://news.yahoo.co.jp/articles/dc899ea81875179e6df655404791c7d78834945f