ヘンリー・キッシンジャーと激動の外交舞台裏:元日本大使が語る「人間関係」の重要性

公に報じられる記者会見の裏で、時に一歩も譲れぬ駆け引きが繰り広げられる外交の世界。その舞台裏が語られる機会は稀です。1960年代から激動の国際情勢を最前線で見てきた元スペイン大使の荒船清彦氏が、その外交官人生を振り返り、特に冷戦期のキーパーソン、ヘンリー・キッシンジャー氏との意外な交流とその人間像を明かします。ニクソン政権下の米日外交の深層を、個人の視点から紐解きます。

ニクソン政権下のワシントン:キッシンジャーの側近との関係構築

荒船清彦氏が1971年に米ワシントンの日本大使館に赴任した時期は、国際政治が大きく動いていた最中でした。ニクソン大統領の国家安全保障担当補佐官であったヘンリー・キッシンジャー氏が同年7月に中国を電撃訪問し、米中関係の歴史的な転換点となった直後のことでした。この外交的激動期に、荒船氏はホワイトハウスで働く「切れ者」と出会います。

当時、キッシンジャー氏の右腕として知られていたウィンストン・ロード氏です。荒船氏は彼とのアポイントメントを取り、直接議論を交わしました。「今度は昼飯でも食おうや」というカジュアルな誘いをきっかけに、二人の交流は本格化していきました。この個人的なパイプを通じて、荒船氏は当時既に世界的な有名人であったキッシンジャー氏へも比較的容易に会うことができるようになったのです。当時の駐米大使である牛場信彦氏がキッシンジャー氏と会うのが通例であった中、これは特筆すべきことでした。荒船氏は、米国人が日本と異なり、年齢や肩書きをそれほど気にせず、論理的かつ的確に世界情勢を語れる相手とは対等に接しようとする文化を肌で感じたと言います。このような柔軟な姿勢が、個人外交を成功させる鍵でした。

ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官が中国の周恩来首相と会談する歴史的な瞬間(1972年2月22日)。この電撃訪問は、後の米中関係に大きな影響を与え、荒船清彦元大使がワシントンに赴任した直後の重要な背景となった。ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官が中国の周恩来首相と会談する歴史的な瞬間(1972年2月22日)。この電撃訪問は、後の米中関係に大きな影響を与え、荒船清彦元大使がワシントンに赴任した直後の重要な背景となった。

ポール・ニッツェとの交流と意外なキッシンジャーの一幕

荒船氏には、もう一人、米ソ間の戦略兵器制限交渉(SALT)で名を馳せた米代表団の要人、ポール・ニッツェ氏との親交がありました。この関係は、荒船氏が英オックスフォード大学に留学していた頃に親しくなった米国人留学生の義父がニッツェ氏であったという、意外な縁から始まったものです。

ある日、ニッツェ夫妻からワシントンで有名なレストラン「リブゴーシュ」での夕食会に招待された荒船氏は、その店内の隅でヘンリー・キッシンジャー氏の姿を見つけます。キッシンジャー氏の会食相手は、米紙ワシントン・ポストの発行人キャサリン・グラハム氏でした。荒船氏を見るや、キッシンジャー氏は荒船氏たちのテーブルに挨拶にきました。しかし、この時、荒船氏が会食していたニッツェ夫妻が、キッシンジャー氏に対して極めて「そっけない態度」を取ったことに荒船氏は驚かされたと言います。「ああ、米国人でも、こういうところがあるんだな」と、著名な政治家であっても、人間関係における微妙な機微が存在することを目の当たりにした瞬間でした。公の場では常に強気な印象のキッシンジャー氏も、プライベートな社交の場ではまた異なる一面を見せていたのかもしれません。

結び:外交を動かす「人間」と「関係性」

荒船清彦元大使の回顧は、国際政治の舞台裏で、公式な交渉だけでなく、個人の信頼関係や人間的魅力がいかに重要な役割を果たすかを浮き彫りにします。ヘンリー・キッシンジャー氏のような歴史的巨人と、一外交官がどのように接し、影響し合ったのか。その物語は、外交が単なる政策やデータだけでなく、生身の人間によるコミュニケーションによって動かされていることを教えてくれます。今回の貴重な証言は、現代の国際関係を読み解く上でも示唆に富んでおり、外交の奥深さ、そして人々の繋がりが国境を越える力を持つことを再認識させてくれるでしょう。

参考文献