坂口恭平氏の「いのっちの電話」:5万人以上の命を繋ぐ“声のシェルター”

作家でありアーティストの坂口恭平氏が、自身の携帯電話番号を公開し、死を望む人々からの相談通話を無償で受け付けている。自身も躁鬱病の経験を持つ坂口氏が13年間にわたり続けてきたこの「いのっちの電話」は、これまでに5万人以上の命と向き合ってきた。その活動の深層には、現代社会が抱える問題への独自の視点と、既存の枠組みにとらわれない新しい形の支援が存在する。本稿では、糸井重里氏との対談を通じて語られた、その驚くべき効果と、命の現場で奮闘する人々への共感、そして「0円」で築かれた“声の建築”としての意義を探る。

13年間の活動が示す「いのっちの電話」の確かな効果

坂口恭平氏は、自身の携帯電話番号090-8106-4666を「いのっちの電話」として公開し、「苦しい時には電話してほしい」と呼びかけている。もし相談後に自殺者が出た場合、警察から確認の連絡が入るはずだが、13年間で5万人以上と話してきた中で、そのような確認の電話はわずか1件だったという。この事実に対し、精神科医の斎藤環氏は「これをエビデンス(科学的根拠)と言わずして、何をエビデンスと言うんですか」と高く評価している。すなわち、「いのっちの電話」につながることで、一時的に命を繋ぎ止め、直後の自殺を防ぐ効果があることを示唆しているのだ。もちろん、数か月後や数年後の動向までを追跡できるわけではないが、目の前の危機を回避する上でのその効果は計り知れない。

命の現場で奮闘する人々への共感と支援

「いのっちの電話」の活動を通じて、坂口氏が目の当たりにしたのは、命の現場で尽力する警察官や救急隊員たちもまた、深い精神的負担を抱えているという現実だった。初めての警察からの確認電話を受けた際、「もし自殺者が出たら活動をやめようと思っていた」と伝えた坂口氏に対し、刑事は「いや、やめないでください。今、私があなたに電話したいぐらいですから」と応じたという。この出来事をきっかけに、坂口氏は「死にたい」と悩む刑事からの電話も受けるようになった。若年層の自殺現場に遭遇する警察官は、深刻な精神的影響を受けるという。また、高層ビルの屋上を歩きながら電話をかけてきた救急隊員は、「砂袋か死体か、もう訳がわからなくなった」と語った。現代社会では「死」が隠される傾向にあるため、それに直接向き合う人々が大きな影響を受けるのだ。坂口氏は今、救急車を見るたびに心の中で「本当にいつもご苦労様です」と感謝を伝えるようになったという。

お金に頼らない支援と独自の社会福祉活動

この「いのっちの電話」は、一切の金銭的なコストをかけずに運営されており、それでもなお5万人もの人々と繋がり、多くの「ありがとうございます」という感謝の言葉を受け取っている。さらに坂口氏は、困窮していると見られるシングルマザーやギャンブル依存症の人々に対し、個人的に数十万円の送金を行うこともある。例えば、結婚式に出席したいにも関わらず、借金のために親にも相談できず死を考えているようなケースだ。10万円を振り込むと、彼らは大いに喜ぶ。この活動について、坂口氏の税理士は「恭平さん、これは普通なら寄付になるから税金がかかるけど、あなたがやっていることは社会福祉法人と同じ。だから私が責任を持って損金にして無税にするから、SNSに書いてくれ」と助言したという。「お金を払った時は物語にしてくれ」という税理士の言葉は、「坂口恭平物語 出演料」という領収書に形を変え、このユニークな社会貢献活動を支えている。

「いのっちの電話」を運営する作家の坂口恭平氏が語る、命を繋ぐ活動の真髄。「いのっちの電話」を運営する作家の坂口恭平氏が語る、命を繋ぐ活動の真髄。

「0円」で築き上げた“声の建築”としてのシェルター

坂口恭平氏はこの「いのっちの電話」を、まさしく「シェルター」、すなわち避難所であると語る。地面を所有せず、建物を造らず、お金もかけない。しかし、かつて彼が衝撃を受けた『宇宙の罐詰』という概念に通じる方法で、この活動は機能している。大学生の頃から「シェルターを作りたい」と願っていた坂口氏にとって、「いのっちの電話」は、実は彼の建築作品なのだ。「0円」で作り上げられた、声だけの「ボイス・アーキテクチャー(声の建築)」。人間が一人存在することで、これほどまでに多様で大きな支援が可能になるという、その可能性を体現しているのである。この活動は、物理的な構造物に頼ることなく、人々の心の安全地帯を築き上げているのだ。

結論

坂口恭平氏の「いのっちの電話」は、現代社会における自殺問題、精神的健康、そして社会支援のあり方に対し、革新的な示唆を与える活動である。13年間にわたる無償の対話を通じて5万人以上の命を繋ぎ止めてきた実績は、その効果の確かさを証明している。また、この活動は、警察官や救急隊員といった命の現場の最前線に立つ人々の見えにくい精神的負担にも光を当て、共感の輪を広げている。物理的な施設や多額の資金に頼らず、「声」と「共感」のみで構築された「ボイス・アーキテクチャー」としてのシェルターは、人々の孤立を解消し、生命の尊厳を守るための新たなモデルを提示していると言えるだろう。坂口氏の活動は、個人の行動がいかに社会全体に大きな影響を与え得るかを示す、現代における希望の光である。


参照元:
ほぼ日(一部抜粋・再構成)
Yahoo!ニュース: https://news.yahoo.co.jp/articles/4a311833192bed39b4e5e7c390f55ac2b3e4db64