1868年の明治維新は日本を近代国家へと転換させました。封建的な身分制度を排し、中央集権国家の基盤を築く中で、司法制度の近代化に尽力したのが江藤新平です。しかし、「征韓論争」で下野し、「佐賀の乱」を率いた彼は、悲劇的な最期を迎えます。この記事では、乱に敗走した新平が西郷隆盛に助けを求めた際の詳細と、その結末を深掘りします。
明治維新の激動を生きた江藤新平の姿をイメージ
佐賀の乱での敗走と西郷隆盛への援軍要請
明治政府は佐賀の乱を起こした佐賀県の反乱士族を「賊徒」と認定し、大久保利通率いる軍勢が鎮圧に投入されました。激しい陸戦の末、二月二十七日には佐賀県の士族たちは完全に瓦解。新平は勝ち目がないと判断し、二月二十三日には「征韓論党」の解散を命じて戦線から離脱していました。これは単なる逃亡ではなく、鹿児島県の西郷隆盛に援軍を求めるため、そして何よりも仲間の命を守るための決断でした。
彼は反対する同志たちに対し、「大勢は決した。いたずらに戦って死ぬのは、匹夫の勇である。私は死を惜しんでいるのではない。平生の志を貫くのだ。それに、突然、征韓党を解散して私が佐賀から脱すれば、仕方なく兵たちは戦いをやめ、潜伏の準備をするだろう」と述べ、その真意を伝えました。
盟友西郷隆盛との密談、そして拒絶
数名の仲間と共に船で鹿児島県へと向かった江藤新平は、西郷が静養していた鰻温泉に到着します。西郷は快く新平と面会し、三時間にわたる話し合いが行われました。翌日も四時間もの密談が続き、時には西郷が激高する声が部屋の外まで漏れ聞こえるほどだったと言います。しかし、結局のところ、西郷は新平の必死の要請に応じることはありませんでした。この拒絶が、新平のその後の悲劇的な運命を決定づけます。
理想と現実の狭間で散った悲劇の士
佐賀の乱に敗れ、西郷隆盛の援軍も得られなかった江藤新平の運命は、ここに大きく暗転します。明治維新という変革期の裏側で、近代国家の理想を追い求めながらも、時代の潮流と政治的思惑の狭間に翻弄された一人の士族の悲劇が浮かび上がります。彼の梟首というむごい最期は、その後の士族反乱にも大きな影響を与えました。
参考資料
- 河合 敦著『侍は「幕末・明治」をどう生きたのか』(扶桑社刊)