日本は毎年9月1日の「防災の日」に、過去の災害と向き合い、未来への備えを誓います。しかし、この日には、単なる自然災害の記憶だけでなく、その混乱の中で生まれた人為的な「差別」という痛ましい歴史も深く刻まれています。本稿では、関東大震災時の悲劇的な差別事件から、現代社会における言動の自由と偏見の問題までを考察し、私たちが守るべき平和と共生の価値について深く掘り下げます。
新横浜駅前で熱心に演説を聞く参政党支持者の様子
関東大震災と「15円50銭」の記憶
1923年、関東大震災発生直後、社会は大混乱に陥り、デマが広がる中で朝鮮人に対する謂れのない虐殺が横行しました。当時の自警団は、人々を「朝鮮人」と決めつけ、「15円50銭」など特定の言葉の発音で日本人か否かを判別しようとしました。吃音がある人や聾唖者までもが、うまく話せないという理由で「朝鮮人」と見なされ、命を奪われる悲劇が多数発生したのです。この出来事は、パニックと偏見がいかに容易に人を狂気に駆り立て、差別を助長するかを如実に示しています。筆者の祖父の体験からも、近隣の男性が吃音のため自警団に拘束されかけたという生々しい証言があり、当時の緊迫した状況を物語っています。
自由な言論の萎縮と平和への訴え
関東大震災の発生からわずか8年後には満州事変が勃発し、日本は軍国主義へと傾倒していきます。祖父が大正デモクラシーの自由な空気の中で映画文化を享受していた時代は終わり、不況と軍国主義の高揚によって、自由な発言は許されず、文化は贅沢品となり、言論は急速に萎縮していきました。多くの同世代が戦争で命を落とす中、祖父は自由と希望に満ちた文化が、いかに簡単に失われるかを目の当たりにしたのです。戦後、彼はその経験から「平和の尊さ」を孫に繰り返し伝え、新聞を熟読し、政治や社会情勢について常に意見を述べていたと言います。これは、過去の歴史から学び、自由な社会を守ろうとする強い意志の表れでした。
参政党の街頭演説に集まった聴衆と、その横で抗議の声を上げる市民
現代に繰り返される「差別」の影
そして近年、この痛ましい歴史が形を変えて現代に蘇るかのような出来事がありました。今年の夏、躍進が報じられた参政党の街頭演説に対し抗議する市民に対し、参政党支援者が「10円50銭と言ってみな」とからかうように言う動画が拡散されたのです。この発言は、関東大震災時の「15円50銭」という差別的な言葉を想起させ、歴史が持つ重みを改めて浮き彫りにしました。特定の政治的主張への反対意見を、歴史的な差別表現で揶揄する行為は、言論の自由を侵害し、社会に新たな分断と偏見を生み出す危険性をはらんでいます。
結論:歴史の教訓を胸に、平和な共生社会を築くために
関東大震災の記憶から現代の政治的言動に至るまで、私たちは「差別」という課題から目を背けることはできません。過去の悲劇は、非常時や社会の混乱期において、いかに簡単に人々の理性や共感が失われ、偏見に基づく排除が行われるかを示しています。祖父が伝えた「平和の尊さ」は、単なる戦争の回避だけでなく、あらゆる差別のない、自由で開かれた社会を意味します。現代社会において、私たちは歴史の教訓を真摯に受け止め、安易な排他主義や差別的な言動に流されることなく、多様性を尊重し、互いを理解しようとする姿勢を持ち続けることが不可欠です。言論の自由を守り、全ての人が安心して暮らせる共生社会を築くため、私たち一人ひとりが常に警戒心を忘れず、歴史から学び続けることこそが、未来への責任と言えるでしょう。
参考資料
- 北原みのり.おんなの話はありがたい.Yahoo!ニュース.(2025年9月5日公開) https://news.yahoo.co.jp/articles/4c98bd82c4f1e04783f244e0e62517eaceb599f8