今月、常陸宮さまが卒寿を迎えられる。平安時代に中国から伝わったこの長寿祝いは、90歳という人生の大きな節目を意味する。アドルフ・ヒトラーがドイツの再軍備を宣言した1935年、世界が不穏な軍靴の音を響かせ始める中で、常陸宮さまは昭和天皇と香淳皇后の間に上皇陛下の長弟として生を受けられた。昭和天皇と秩父宮さまの関係が、戦争への姿勢の違いから比較されることがあったと語り継がれる中、上皇陛下にとっての常陸宮さまはどのような存在であり、また国民は「庶民派」と呼ばれる殿下にどのような共感を抱いてきたのだろうか。
2023年、笑顔で並ばれる常陸宮ご夫妻。国民に親しまれるお二人の温かい雰囲気は、長きにわたる皇室の歴史と安定を象徴しています。
生誕と皇室の激動期
常陸宮さまは1935年11月28日、激動の時代に誕生された。宮内庁書陵部が編纂した「香淳皇后実録」には、この日の詳細が克明に記されている。木曜日の午後3時頃に産殿に移られ、午後7時57分に親王を御出産。その後、天皇陛下(昭和天皇)と御対面になり、続いて香淳皇后の母にあたる久邇宮邦彦王妃俔子さまとも対面されたという。そして、誕生から7日目の12月4日には「命名の儀」が執り行われ、正仁(まさひと)という御名を賜り、義宮(よしのみや)の称号が親王に伝えられた。9歳で終戦という未曾有の経験をされ、1953年3月に学習院大学理学部化学科を卒業された。
常陸宮家当主としての独立と「庶民派」の素顔
1964年9月30日、実録には「正仁親王結婚式中朝見の儀」が執り行われたことが記載されている。この日、「宮内庁告示をもって天皇より正仁親王に常陸宮の称号を賜う旨が発表される」とあり、常陸宮さまは宮家を背負う当主として独立を果たされた。
旧日本軍の最高位にあった昭和天皇に対し、陸軍幹部の一人であった秩父宮さまを二・二六事件の「黒幕」とする俗説が存在したが、昭和史研究の第一人者である保阪正康氏の著書『秩父宮』(中公文庫)において明確に否定されている。しかし、「庶民の宮さま」として国民に親しまれた秩父宮さまが、天皇の次男という宿命のもと、常に兄と比較対象とされてきた事実は否めない。
子供の頃から科学分野に深いご関心をお持ちだった常陸宮さまも、その親しみやすいキャラクターから、漫画の主人公にちなんで「火星ちゃん」という愛称で呼ばれ、国民から愛された。大学ではその愛称から連想される宇宙のイメージ通り、理系の道を選ばれた。
理系への傾倒、唯一無二の選択
戦後、皇太子として昭和天皇の名代を務め、終戦からわずか8年後には欧米14カ国を歴訪された上皇陛下は、学習院大学政治経済学部を選択された。その後も、寛仁さま、桂宮さま、高円宮さまはいずれも法学部、今上天皇陛下は文学部、秋篠宮さまも法学部と、多くの皇族方が文系の学問を選ばれる傾向にあった。そのような時代において、周囲に流されることなく、ご自身の「お好きな道」である理系に進まれた常陸宮さまの選択は、国民に少なからぬ共感を呼び、その唯一無二の存在感を際立たせることとなった。科学への真摯な探求心と、飾らない人柄が、「庶民派」として広く愛される所以であろう。
結びに
90歳という卒寿を迎えられる常陸宮さまの人生は、激動の昭和から平成、そして令和へと続く日本の歴史と皇室の歩みを体現している。ご自身の興味と信念に基づいて理系の道を進み、長年にわたり研究活動に尽力されてきたそのお姿は、皇室の伝統と革新を象徴する。国民に「庶民派」として親しまれ、その温かいお人柄で多くの人々に寄り添ってこられた常陸宮さまの存在は、これからも日本社会において大切な意味を持ち続けるだろう。
参考資料
- 宮内庁書陵部「香淳皇后実録」
- 保阪正康 著 『秩父宮』 (中公文庫)
- Yahoo!ニュース (記事原文)





