松平定信はいかにして失脚したか?寛政の改革を巡る政治的対立と歴史的背景

江戸時代後期、老中として「寛政の改革」を推し進めた松平定信。その卓越した才能にもかかわらず、なぜ彼は将軍家や朝廷との関係を円滑に築けず、最終的にその地位を追われることになったのでしょうか。本稿では、歴史評論家の見解を交えつつ、当時の政治状況、対外関係、そして民衆の反感がいかに彼の失脚へと繋がったのかを詳細に分析します。近年放送されているNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」でも描かれている松平定信の姿を通して、その剛直で狭量と評される人柄と、彼が直面した厳しい現実を探ります。この分析は、松平定信が時代に翻弄されながらも、その政策が後世に与えた影響を深く理解するための鍵となるでしょう。

寛政の改革と松平定信の政治手腕:辞職願の真意

政治家が「改革」を掲げるのはいつの時代も同じですが、それが人々を振り回す結果となることも少なくありません。NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、松平定信(井上祐貴)が推進する寛政の改革が、武士から町人まで、多くの人々に影響を与える様子が描かれています。定信は文武を奨励し、倹約を強要し、風紀を厳しく取り締まる姿勢を貫きました。この厳格な政策は、当初は同志であった老中格の本多忠籌(矢島健一)や老中の松平信明(福山翔大)からも反感を買い、さらには将軍家斉の実父である一橋治済(生田斗真)も定信を疎ましく思い始め、反定信グループが形成されつつありました。

ドラマ第41回「歌麿筆美人大首絵」では、定信が巧みな政治劇を演じる場面が描かれます。将軍家斉に嫡男が誕生した際、定信は将軍補佐役、財政を司る勝手掛、大奥を管理する奥勤めからの「辞職願」を家斉と治済に提出しました。これを聞いた家斉の表情は、定信の辞任を喜ぶかのように見えましたが、これは定信の計算された策略でした。尾張藩主の徳川宗睦(榎木孝明)が事前に打ち合わせ通りに異議を唱えたことで、定信は将軍補佐役と勝手掛に留まることになります。この「辞職願」は、自身の地位を再確認させ、権力基盤を強化するための最後のあがきだったのです。

旧江戸城の桜田巽櫓。寛政の改革が行われた江戸時代を象徴する歴史的建造物。旧江戸城の桜田巽櫓。寛政の改革が行われた江戸時代を象徴する歴史的建造物。

定信の運命を左右した二つの難題:対外政策と朝廷との確執

定信の政治的運命を大きく左右する二つの重要な案件が、ドラマ第42回「招かれざる客」で描かれています。一つは、ロシアのラクスマンが乗る船が松前領根室に到着し、日本の漂流民・大黒屋光太夫の引き渡しと江戸への来航を希望してきたという外交問題でした。他の老中からはロシアとの通商開始を検討する声も上がりましたが、定信の回答は断固たるものでした。「オロシャの船を江戸に入れるなど断じてならぬ! 口車に乗せられ、江戸に招き入れたところで、大筒をぶっ放さぬともかぎらぬではないか!」と、強硬な姿勢を崩しませんでした。しかし、対外的な脅威が増しているという認識は、他の老中たちとも共通していました。

もう一つは朝廷との確執、具体的には「尊号宣下(そんごうせんげ)」問題です。光格天皇が、すでに父親である閑院宮典仁親王(天皇になった経験はない)に、退位した天皇の尊称である「太上天皇(上皇)」の号を贈ると決定したとの知らせが幕府にもたらされました。これを事前に拒否していた定信は激怒し、もし本当に尊号が贈られるならば、朝廷への金銭援助を打ち切り、関与した公卿らを処罰するとまで言い放ちました。実際に、定信はこの問題で議奏の中山愛親と正親町公明を江戸に呼び出し、厳しく尋問した上で両名を解任しています。

松平定信の別称「楽翁」像。彼の改革と生涯の功績を称える南湖神社に建立されている。松平定信の別称「楽翁」像。彼の改革と生涯の功績を称える南湖神社に建立されている。

改革への反感と民衆の不満:失脚への道

公卿たちに厳しく対峙した寛政5年(1793年)2月からわずか5ヶ月後の同年7月22日、36歳の松平定信に、将軍家斉から将軍補佐と老中をともに解任するという内意が伝えられます。これはドラマ第43回「裏切りの恋歌」でも描かれることとなります。この5ヶ月の間、定信の改革に対する反感は各方面でさらに強まっていました。

ロシアなどの異国船の度重なる来航に対し、定信は強硬姿勢を保つ一方で、これを武士に武芸を習得させる好機と捉え、文武奨励を一層強化しました。さらに、海防強化のため一定数の武士を房総半島などに配備しようとしたことで、武士たちの間にも反感が募ります。また、度重なる倹約令や風紀の取り締まりは、寛政5年の正月頃から深刻な不景気を招き、庶民の生活を圧迫していました。

このような状況下の7月16日、ロシア使節のラクスマンが日本を離れました。この海防上の危機が一時的に去ったことで、定信を排除しようとする政変を断行する環境が整いました。将軍補佐と老中の両職を解任するという案は、老中の評議にかけられます。これには事前に一橋治済の賛同が得られており、さらに御三家の尾張家と水戸家も、半ば強引に同意させられていたのです。松平定信の失脚は、彼の剛直すぎる性格、そして内外の情勢変化に柔軟に対応しきれなかった結果とも言えるでしょう。

結論:時代に翻弄された改革者の末路

松平定信の失脚は、彼個人の性格的要因だけでなく、当時の複雑な政治情勢と社会構造が深く絡み合った結果でした。卓越した才能を持ちながらも、将軍家斉との微妙な関係、朝廷との尊号宣下問題における強硬姿勢、そしてロシア船来航に代表される対外危機への対応が、彼を孤立させていきました。さらに、寛政の改革がもたらした厳しい倹約や風紀統制は、武士から庶民まで幅広い層からの反感を招き、その求心力を低下させました。

ラクスマンの離日が、定信排除のための最後のピースとなったことは象徴的です。内政と外交の課題が交錯する中で、定信は自らの信念を貫きましたが、それが結果として周囲の理解を得られず、最終的に失脚へと繋がったのです。松平定信の生涯は、理想を追求する改革者が、時代の波と人間の感情にいかに翻弄されるかを示す、歴史の教訓と言えるでしょう。

参考文献

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  • 歴史評論家 香原斗志氏による論説 (President Online掲載記事を引用)