江戸時代の稀代の天才、平賀源内。彼が残した数々の功績は現代にまで語り継がれていますが、その最期は多くの謎に包まれています。近年、NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で俳優の安田顕が演じる源内が「生存説」を展開し、再びその謎に注目が集まっています。本記事では、歴史評論家の香原斗志氏の分析を基に、源内の謎多き死の真相と、まことしやかに囁かれる「生存説」について深掘りしていきます。
NHK大河ドラマが描く「源内生存説」
NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、平賀源内(安田顕)は安永8年12月18日(1780年1月24日)に獄死したと描かれました。しかし、物語は寛政5年(1793年)へと時が移り、「空飛ぶ源内」というサブタイトルで、実は源内は生きているのではないかという新たな展開を見せます。蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)のもとに現れた重田七郎貞一(井上芳雄)が、源内作とされる「相良凧」を持っていたことから、蔦重も源内生存の可能性を探り始めます。杉田玄白(山中聡)らと共に源内の謎を追いかける中で、この「源内生存説」は一体どれほどの信憑性を持つのでしょうか。
成田山新勝寺の節分会に出席した俳優の安田顕
江戸時代最大のミステリー:源内の自首と殺人事件
歴史を紐解くと、源内の最期はより一層深い謎に包まれています。安永8年(1779年)11月、源内は自ら奉行所に出頭し、酒の上の過ちで人を斬り殺したと申し立てました。しかし、この殺人事件については、源内の動機はもちろん、被害者が誰であったかすら定かではありません。高松藩家老の木村黙老が著した『聞まゝの記』によれば、被害者はある大名の庭の普請を請け負った町人だったとされます。源内が経費削減を吹聴したことから町人との間で争いが生じ、和解の酒宴の翌朝、書類の紛失を巡って町人を斬ってしまったというのです。書類が見つかった後、源内は自害を試みるも周囲に止められ、自首に至ったと記されています。この記述は非常に具体的ですが、他の史料では異なる情報が示されており、事件の全貌は依然として不明です。
死因をめぐる諸説と「幻の墓」
源内がどのような理由で殺人を犯したのか、正確なことは今日まで判明していません。確かなのは、自首してから約1ヶ月後、江戸伝馬町の牢内で死去したという事実のみです。『江戸名所図会』で知られる斎藤月岑の『平賀実記』上巻の注記には、斬られたのは源内の門人である米屋の倅、神田久五郎ともうひとりの勘定奉行の中間、丈右衛門の二人だと記されており、『聞まゝの記』とは異なる記述が見られます。死因についても諸説あり、『聞まゝの記』では破傷風が致命傷だったとされますが、後悔と自責の念から絶食したという説も存在します。
杉田玄白らの尽力により、源内の墓所は浅草の総泉寺に設けられました。しかし、この寺が昭和3年(1928年)に板橋区小豆沢へ移転した後も、墓は台東区橋場に残り、現在では国指定の史跡となっています。にもかかわらず、この墓に源内が本当に埋葬されているのかという疑問が投げかけられており、彼の最期を巡るミステリーは尽きることがありません。
平賀源内の死は、歴史の闇に葬られたまま、多くの人々の想像力を掻き立て続けています。





