近年のNHK大河ドラマの中で、『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』は、その質の高さにおいて際立っています。特に、主人公である蔦屋重三郎(横浜流星)が生きた時代の考え方や慣習、そして史料との整合性を極力保ちながらフィクション描写が練り上げられている点が、その成功の大きな要因だと考えられます。このような歴史への敬意は、単にエンターテイメントとしてだけでなく、視聴者が時代背景を深く理解する上でも重要な役割を果たしています。
「どうする家康」との比較に見る歴史描写の課題
一方で、2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、時代背景にそぐわないフィクションが多く見受けられました。その一例が、徳川家康(松本潤)の正室・築山殿(有村架純)が戦の虚しさを説き、「奪い合うのではなくあたえ合うのです」と提唱する場面です。隣国間で足りないものを補い合い、武力ではなく慈愛の心で結ばれれば戦は防げるとし、家康や重臣たちがこれに納得するという描写がありました。しかし、戦国時代において、大名が治める領国の境界は常に敵の脅威に晒されており、戦わなければ敵の侵攻を許すことになります。また、戦う意思を示さなければ、傘下の領主たちが主君を見限ることも珍しくありませんでした。「あたえ合う」という発想が生まれ得る時代ではなかったのです。このような時代錯誤な設定は、フィクションが歴史から乖離し、単なる空想になってしまう危険性をはらんでいます。
史料に基づいた「べらぼう」の質の高さ
歴史ドラマにおいて、史料で明確にわかる事柄には限りがあるため、フィクションは不可欠です。しかし、『べらぼう』が評価されるのは、たとえ架空の筋立てであっても、その時代に起こり得る展開と、その時代らしい人間像が描かれているからです。これにより、視聴者は物語を楽しみながら、当時の時代背景や人々の心情をより深く理解することができます。前述の『どうする家康』の例のように、歴史への大きな誤解を生んでしまうような描写とは一線を画しています。
松平定信の「暴走」が鮮やかに描かれた名場面
『べらぼう』の優れた描写を象徴する場面の一つが、第40回「尽きせぬは欲の泉」(10月19日放送)で描かれた、改革路線を突き進む松平定信(井上祐貴)と、かつての同志たちが離反していく姿です。妥協を知らない定信に対し、老中格の本多忠籌(矢島健一)は「越中守様、人は正しく生きたいとは思わないのでございます。楽しく生きたいのでございます」と切迫した様子で進言。老中の松平信明(福山翔大)も「倹約令を取りやめ、風紀の取り締まりをゆるめていただけませぬか」と続きました。
しかし、定信は彼らの声に耳を傾けず、「世が乱れ、悪党がはびこるのは、武士の義気が衰えておるからじゃ。武士が義気に満ち満ちれば、民はそれに倣い、正しい行いをしようとする。欲に流されず、分を全うしようとするはずである。率先垂範!これよりはますます倹約に努め、義気を高めるべく、文武に励むべし!」と言い放ちました。
蔦屋重三郎を演じる横浜流星
定信の意向で登用されたはずの本多忠籌や松平信明でさえ、その妥協のなさには嫌気がさし、生田斗真が演じる一橋治済らと反定信グループを形成することになります。これらの登場人物のセリフや行動は、史料に書かれているものとほぼ重なっており、優秀でありながらも狭量な定信が、いかにして周囲を敵に回していったのかが、史料に基づいた丁寧な場面作りによって鮮やかに描かれていました。このような歴史考証へのこだわりが、『べらぼう』を単なる時代劇に終わらせず、深い洞察と感動を与える作品へと昇華させています。
結論
NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』は、史実とフィクションのバランスを巧みに取りながら、視聴者に当時の時代背景と人々の生き様を深く理解させることに成功しています。特に、松平定信の「暴走」を描いた場面は、史料に忠実でありながらドラマとしての面白さも兼ね備えており、その質の高さを象徴しています。このような作品は、歴史ドラマとしてだけでなく、情報源としても価値のあるコンテンツであり、現代の視聴者にとっても学ぶべき点が多いと言えるでしょう。





