「生涯修業」を掲げ、映画と舞台、二つの世界で長く観客を魅了してきた仲代達矢さんが亡くなったのは11月8日のこと。92歳だった。
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1952年に俳優座養成所に入り、役者人生の一歩を踏み出した仲代さん。演出家の千田是也さんを師と仰ぎ、シェークスピアやイプセンなどの舞台に立ったほか、黒澤明監督の映画「椿三十郎」「影武者」出演などで、世界にもその存在は知られた。また、俳優養成所「無名塾」を主宰し、人間の生きざまや社会のありようを観客に問いかけ、役所広司、若村麻由美、益岡徹ら後進を育ててきた。仲代さんが追悼されるいま、「影武者」の逸話が改めてクローズアップされている。【渡邉裕二/芸能ジャーナリスト】
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世界のクロサワと天下のカツシンが激突――。「影武者」は撮影開始早々に、主演の勝新太郎さん(当時47歳)と大激突した黒澤監督(当時69歳)が、勝さんを降板させるという前代未聞の事件が起きた。
46年前の1979年7月20日に勃発した映画史に残る“降板劇”について、当時を知る映画関係者はこう語る。
「映画は、黒澤プロと東宝の共同製作でした。当時の金額で12億円を超える巨額の製作費を投じての大作です。武田信玄の死後、その遺言で信玄になりすました男の人生を描いた作品だったんですが、企画・脚本・監督の3役を手がける黒澤監督にとっては、『赤ひげ』以来、実に14年ぶりの時代劇。しかも、米国のフランシス・フォード・コッポラ監督らの協力も得て、全世界で公開することも視野に入れていました。それゆえ黒澤監督は力が入っていたのですが、勝さんとの激突は、ちょっとした感情の問題でした」
“役者バカ”が行き過ぎて…
一方、当時取材した長老の映画記者は「“役者バカ”が高じて、カツシンは一世一代の大役を棒に振ってしまった」と振り返るこの騒動。そもそもの発端は、7月18日に東京・砧の東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)でのリハーサル中にさかのぼる。
「勝さんが、リハーサルにビデオカメラを持ち込もうとしたんです。自分の演技の研究のためで、ビデオを持ち込むのは、勝さんのいつものやり方でした。ところが、黒澤監督は『その必要はない』と、ビデオを許可しなかった。これにヘソを曲げた勝さんは控室に戻ってしまい、リハーサルが中断してしまった」(前出の映画記者)。
事態を受け、共同製作の東宝の首脳陣が黒澤監督を説得した。が、監督は最後の最後まで首をタテに振ることはなかった。「そこで、監督と東宝の松岡功社長、田中友幸プロデューサーが話し合い、勝さんを降ろすことで合意したんです」(同)
勝さんには、21日午後に降板が通告された。黒澤監督は降板の理由を「監督が2人いたら映画はできない」と語った。
「勝さんは役者バカとして有名で、撮影中に気分を害するとプイと消えることはよくあった。大物スターということで、周りで気を使ってなだめて勝さんの我がままは通っていたが、今回だけは相手が悪かった。ただ勝さんも、黒澤監督に対するジャブのつもりだったと思いますよ。火花を散らしていい芝居をと考えていたフシがあったようです。ビデオの持ち込みがダメだったら降りるなんていう気持ちはさらさらなかったはずです」(前出の記者)
要は、勝さんは、ビデオの持ち込みを注意されたことに反発して起こした“ストライキ”によって、逆に監督の怒りを買ってしまったということにもなる。





