北朝鮮に連れ去られた有本恵子さん(60)=拉致当時(23)=の父、明弘さん(91)が産経新聞の取材に応じ、先月3日に亡くなった妻、嘉代子さんへの思いと、拉致解決に取り組む覚悟を改めて語った。「(救出活動は)家内と俺の一代限り」。自らも90歳を過ぎ、残された時間が少ないことに焦りもにじませた。(藤木祥平)
「人並み以上にしっかりしていた。ほんまにええ家内やった」
94歳の生涯を閉じた亡き妻への感謝を、明弘さんは率直に明かした。嘉代子さんの葬儀が行われた先月6日の報道陣の取材には「言葉が出えへん」としか言えなかった。憔悴(しょうすい)の深さが夫婦の絆の強さを物語っていた。
20代で結婚。明弘さんは金属加工品の製造を営み、機械音が響く自宅で6人の子供を育てた。家事は妻に任せきりだったが、嘉代子さんは何一つ文句を言わなかったという。
そんな生活が一変したのは昭和63年9月。5年前から行方不明となっていた恵子が、なんと北朝鮮で過ごしている-。同じ拉致被害者の石岡亨さん(62)=同(22)=の実家を通じ、その事実を知らせる手紙が明弘さん夫婦にもたらされた。
仕事で地元を離れることができない明弘さんに代わって嘉代子さんが上京。有力議員の事務所に駆け込み、警察庁や外務省に娘の救出を訴えた。「普通の主婦やのにレベルの高い対応をしよった」と振り返る。
夫婦二人三脚での訴えはそれからも続いた。老いに体をむしばまれながらも娘との再会を願って夫婦で国内外を飛び回り、署名集めや講演を重ねた。
しかし平成27年、嘉代子さんの心臓に病気が見つかり入院。以後は体調が安定せず入退院を繰り返した。
嘉代子さんが死を覚悟しながら、病室のベッドで思い描いたのは恵子さんのことだった。「6人も子供に恵まれ、自分は幸せ。でも恵子のためにもうちょっとおらなあかん」。明弘さんはそんな妻の身を案じながら、1人で拉致問題解決のための活動を続けた。